歴史の教訓に学んだ家康の政策 ②思想統治 | 福永英樹ブログ

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 前回は、江戸幕府構造的に安定させるために徳川家康が行った、足利幕府豊臣政権の失敗を教訓とした大名統治政策(権力組織構造)を紹介させていただきました。

 しかし、稀有な政治家である家康はそれのみにとどめず、武家階級を中心とした、人々の内面性にも踏み込んだ、ソフト面からの安定的統治を図りました

 足利幕府の後半は、8代将軍足利義政の正室であった日野富子(参考投稿記事:日本史三大悪女) の行動に象徴されるように、目先の権力争いに終始した、理念も節操もない為政者にあるまじき醜態をさらしていました。

 また、ようやく全国統一を果たした豊臣政権構造も、秀吉の強大な権力を背景とした「」と「」のみに頼るものであったため、全権力が集中していた秀吉が病死した直後から、あっけなく崩壊していきました。

 これらを教訓とした家康は、中国の伝統的思想である儒教を、武家階級の思想・哲学の礎として採用しました。



②思想統治政策


 日本人にとって伝統的な思想哲学と言えば、江戸時代の前までは事実上仏教だけでした。しかし仏教とは、中世における政治に対する大きな影響力を見る通り、一歩間違えば政権に敵対する恐れのあるものでした。そこで家康は、「親を敬い年長者を大切にせよ」と説く儒教に目を付けました。特に儒教の一思想である朱子学は、「下が上を敬い、上が下を慈しむのは、大宇宙の真理である」と説いていたため、「日本中の人間が徳川家を敬い、幕府に従うのは、大宇宙の真理である!」と言うことができる、政権運営にあたって最も都合のよい思想(道具)だったのです。


 つまり、士農工商に象徴される、上下秩序によって日本国の統治を成り立たせようという家康の方針に沿ったものだったのです。乱世の傷跡が冷めやらぬこの時期、社会における身分制・階級性を保証することこそが、長期的な平和のために最も有効であると考えたのです。

 支配者と庶民、主君と臣下という関係は、互いに裏切ることが許されない絶対の上下関係にしなければならない。だからこそ、支配者は常に下の者を慈しみ大切に保護してやらなければならないし、下の者は常に主君に尽くさねばならないという論理です。



 BUT…


 この政策は、江戸時代前半までは非常に有効で、徳川政権の維持と平和の継続に大きく貢献しました。ところが、100年を超えたあたり(八代吉宗在位くらい)から、むしろ弊害変わり果ててしまいました。

 まずは、幕府や諸藩における財政が、商品経済の急速な発達による商業資本の膨張により逼迫したことです。米(年貢)のみを財源とした財政運営は、既に限界に来ており、政権や藩は、商業に積極的に関与し、そこから課税していくことにより財政を立て直す必要がありました。しかし儒教の教えは、商業を徹底的に蔑視していたため、誰もここに踏み込もうとしません。ただ一人これに挑戦した10代家治の老中であった田沼意次は、儒教に従った農本主義に固執する政敵松平定信により失脚させられて、結局失敗してしまいました。


 さらに江戸幕府がつくった身分制度が、あまりにも長く継続して固定化していたため、家格・身分に縛られた人材登用による無能な幕閣の存在に、いつも政権は足を引っ張られるようになっていました。

 また、庶民の暮らしも江戸初期と比較して豊かになり、それに伴い、教育を受けたいという庶民の意欲も高まっていたため、国民全体の身分制に対する意識も少しづつ変わっていたものと思われます。

(参考投稿記事:江戸時代と日本人)


■家康の政策は賞味期限が切れてしまっていたのです

 これを家康の責任とするには、あまりにも長い時間が経過していましたので、後続の将軍や幕閣たちが無能であったとするか、あるいは幕藩封建体制そのものが既に時代遅れで、どうにもならなかったのかの、どちらかであったのでしょうね。