豊臣秀頼=秀吉の非実子 新説について | 福永英樹ブログ

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 昨年2012年、九州大学教授の服部英雄氏が自著において


豊臣秀頼(1593~1615)は、太閤豊臣秀吉実子ではなく、秀吉それを受け入れていた。


という新説を唱え、注目を集めました。


 

 実は、この秀頼非実子説は、関白豊臣秀次の補佐役であった前野長康の生涯を綴った『武功夜話』や、当時の在日ポルトガル人宣教師であるルイス・フロイス記録などにより、古くから取り沙汰されてきた異説でした。服部氏はこれをさらに再検証した末に、次の4つの理由非実子説根拠としました。




1.正室お寧(北政所)をはじめ、秀頼を出産した茶々(淀殿)以外に多くの側室たちがいたにも拘わらず、誰一人として秀吉の子を妊娠しなかった。これは、秀吉側に体質的な不妊の原因があったことを証明している。


秀頼妊娠した時期、秀吉茶々一緒に居なかった。秀頼の誕生日から逆算した妊娠日は、1992年11月4日前後であるが、この時秀吉は、朝鮮出兵の国内前線基地である肥前国名護屋城におり、茶々同行していなかった。


3.秀吉が、秀頼誕生を喜んでいない。茶々懐妊を知った秀吉は、正室お寧に手紙を送ったが、その内容は「生まれる子は、茶々ひとりの子でよい」という、冷ややかなものであった。従来、これは秀吉が「子を産まなかったを気遣ったために、喜びを控えた」と解釈されてきたが、服部氏は額面通りに解釈すべきと唱えている。


4.秀吉秀頼誕生直後に、茶々付きの侍女・僧侶・陰陽師の多くを追放・処刑している。服部氏は、「子宝を授かる祈祷ができて、宗教的陶酔をつくりだす陰陽師による非配偶者受精が行われた」と推測茶々が、自身の政治的立場の強化のために犯したものであるとしています。また、秀吉も後継者を望んでいたため、あえて茶々を罰しなかったといわれています…




■ここからは、私見を述べていきます。

のように、仮に秀吉血縁でもない秀頼の存在を黙認していたとして、なぜ血縁(甥)で一度は後継者(関白)と認めた豊臣秀次排除(切腹)したのでしょうか? 

 おそらく秀吉はこの頃、表面上はともかく、政権内部において孤立していたのではないかと推察します。そこから脱却するために、血縁でない秀頼を後継者に定めたのではないでしょうか?


 朝鮮出兵に最後まで反対していたとされる秀吉実弟豊臣秀長は、実質的に豊臣家を運営してきた人物で、諸大名や、彼等が師事する茶人千利休からの信頼も、秀吉以上という存在でした。秀長の死後、これを引き継いでいたのが関白秀次でした。秀次は、朝鮮出兵により財政難に陥る大名たちに金銀を貸与して援助していました。さらに、豊臣家重臣徳川家康、前田利家、浅野長政らも、内心では朝鮮出兵反対していたのです。秀吉が、秀長病死直後に利休を殺したことも、彼らの心が秀吉から離れていく要因となってしまいました。


早く秀吉に病死でもしてもらい、秀次により朝鮮出兵を止めてもらいたい…


おそらく、これが諸大名の内心の総意であったと思います。


もし、事実がこんな有様だったとすれば、、秀吉「唯一自分の掌に入ってくれる茶々の子が、例え自分の実子では無くても、己の後継ぎにしたい」と思う気持ちも、何となくわかるような気がします。



■上記の説は、「秀吉は血の濃さを優先してために、秀次を排除して秀頼を守った」という従来の定説を完全に覆すことになりますが、非常に興味深いことも、また事実です。今後の研究を是非見守っていきたいものです。