明智光秀=南光坊天海説の信憑性は? | 福永英樹ブログ

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 皆さんご承知の通り、明智光秀(?~1582)は、山崎の戦羽柴秀吉敗戦し、居城である坂本城に逃れる途中、落ち武者狩りにより殺されたとうのが通説ですね。ところが、明治時代に入ってから、光秀子孫と称する人物が、


「実は、光秀は殺されずに生き延びていて、天下人徳川家康に仕えた高僧(政治顧問)である天海(?~1643)に成り代わっており、その根拠もある」


公言したことにより、


明智光秀 = 南光坊天海 


という異説が、にわかに世間の注目を浴びました。


【異説の根拠とされている主なもの】

1.日光東照宮の建物の装飾等に、明智家の家紋である桔梗紋が多くあること。

2.日光に明智平と呼ばれる土地があり、天海が名付けたという伝承があること。

3.光秀が死んだとされる1582年以後に、比叡山光秀の名で寄進した石碑があること。

4.謀反人である光秀の重臣の娘である春日局(お福)が、3代将軍家光乳母になったこと。

5.テレビ局番組で光秀天海筆跡鑑定を行ったところ、本人かそれに近い人物との結果が出たこと。


【山崎合戦後も光秀は生きていたかどうか?】

 上記の異説根拠には、確証と呼べるほどのものは残念ながらないと思います。

しかし、同一人物であったかどうかは別として、私は光秀生きていたと思います。彼は生まれながらの殿様育ちではなく、若い頃は全国を流浪するような苦難の牢人生活を送っていた、ある意味で逞しい人物です。それにもまして、主君織田信長があれほど重く用いた軍略・知略をもった光秀ともあろう武将が、落ち武者狩りごときに不用意に殺されるとは、到底思えないからです。比叡山あたりに落ちのびたものと思います。


【家康と光秀の相性と価値観の共有】

 基本的に家康光秀は似たようなタイプ、考え方の人間だったとおもわれます。古くからの伝統的なもの価値を尊重しつつも、信長のような革新的な新規の考え方にも共鳴する前向きな性格という意味で。ただ、能力光秀の方が家康より上で、人間的な強さでは家康の方が光秀より上であったと思います。265年続いた政権である徳川幕府の、抜群の安定性と組織の格調の高さを思う時、確かに家康・光秀の強力なコンビの力があったのかなと思わないではありませんね。


 ただ、家康本能寺の変には絶対関与していないと思います。彼はいつでも大義名分を重視する人物ですから、光秀に同情(6/16投稿・光秀謀反の真相/リンク) はしていても、謀反という世間体の悪いものに手をだすはずがありません。小牧の陣で、信長の次男である織田信雄に味方して秀吉に対峙したことが、それを証明しています。家康もかつて、長男徳川信康や正室を信長から殺すように命令されるという、辛い遺恨がありました。それでも、天下のため、家臣のために我慢する、人並みはずれたストレス耐性を保持していました。

 一方の光秀は、若い頃の流浪生活や、織田家一の教養をもつ文化人であったこともあり、どこか刹那的な一面があったのでしょう。家臣や妻子の行く末より、自身の想いを優先してしまいました。


 二人に共通したのは、信長政策自体には賛同しつつも、対人関係構築についての稚拙さや、主従間の信頼関係への軽視について危機感をもっていた点であると思います。戦乱を乗り越えるためには、確かに信長の稀に見る革新性行動力は必要でした。しかし、今後の政治(まつりごと)、政権運営というものを見据えた時、信長では困難であると思ったのではないでしょうか?



■光秀天海説については、結局のところ、今後の研究成果を待たなければならないとうのが私の結論ですが、その可能性は大いに信じたいと思います。もしそうなら、これまでの光秀像はもちろん、家康像でさえ大きく見直されることになるからです。