織田信長が横死(1582年)してから、豊臣秀吉が全国統一(1590年)するまでの八年間、その才気をいかんなく発揮し、まるで、それを見届けるように去っていった(38歳で病死)武将がいました。その男の名は、信長にその才能を期待され、秀吉からも絶大の信頼を得ていた堀久太郎(左衛門督)秀政です。(1553~1590)
美濃国の土豪であった父親が、美濃が信長に支配されるようになった時に、少年だった息子の秀政を当時織田家の侍大将だった木下藤吉郎秀吉のもとに送ります。秀吉のことですから、すぐに秀政の才能を認めたことでしょう。秀吉は、あえて13歳の彼を手元から離し、主君信長の小姓に推薦します。案の定信長は、秀吉の思惑通りに秀政をたいそう気にいります。
このあたりは、さすが秀吉ならではの策略で、信長の近くに自分の意のままになる者を置き、信長の動向を常時把握する手段として秀政を利用したものと思われます。秀政もその期待によく応え、将軍足利義昭の居所建設の奉行を務めたり、越前一向一揆攻め、伊賀攻め、紀州雑賀攻め等の戦でも武功をあげました。29歳の若さで、近江国において2万5千石の大名に信長から抜擢されたほどでした。
30歳の時に彼は、信長の命令により中国攻め総大将になっていた羽柴秀吉の軍監(目付)として備中国に派遣されました。その直後に信長が明智光秀の謀反により本能寺において横死したため、以後秀吉の実質的な臣下として行動していくことになります。明智光秀、柴田勝家の討伐戦では、秀政は抜群の戦功をあげました。
しかし、彼の武将としての高い能力を天下に示したのは、秀吉が徳川家康に局地戦で敗戦した長久手の戦いです。秀吉が、甥の羽柴秀次、池田恒興、森長可、秀政らの軍を、家康の居城のある岡崎に奇襲攻撃させて大失敗したことは、あまりにも有名ですが、恒興・長可が戦死し、秀次が逃げ帰る中、秀政だけは唯一徳川軍を破り、敗走させていたのです。
その後の四国平定や九州平定でも活躍した秀政は、従五位下 左衛門督に任官し、越前国において18万石に加増されました。そして、全国統一戦のクライマックスである北条攻めにおいては、いち早く山中城を陥落させる大功をあげました。秀吉は、彼に関東一円に大領土を与えるつもりだったそうです。
しかし、その直後に陣中において疫病にかかり、38歳の若さで急死してしまったのです。
■信長から秀吉にという、天下の動向が激しく動いた時代に活躍し、全国統一を見届けるように病死していったという点で掘秀政は、豊臣秀長と良く似たところがありますね。彼が生き長らえていたら、朝鮮出兵や関ヶ原の戦がどうなっていたのか? 蒲生氏郷といい、この秀政といい、惜しい気持ちもありますが、その後の秀吉の醜態を見ないで亡くなったことは、或いは幸せだったのかもしれませんね…