文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)#6 | 福永英樹ブログ

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■和議交渉開始から秀吉の朝鮮再征(慶長の役)命令まで(文禄2年5月~)

 『朝鮮半島の南半分を日本に割譲せよ』

という秀吉講和条件を見た、現場の外交担当武将小西行長は、おそらく茫然としたことでしょう。

 軍務を采配する大名たちには、最早、征服戦争など不可能であることは明白だったからです。実際に諸大名の財政逼迫し、現場の兵糧弾薬不足により戦闘は不可能な状態でした。


 それにも拘らず秀吉は、6月に講和条件優位にするためのとして、南海岸に近い晋州城(朝鮮義軍により日本軍が苦戦していた)の攻撃を小西行長、宇喜多秀家、加藤清正厳命しました。5万人の日本軍は、朝鮮軍のこもる晋州城を攻め、兵士・民衆併せて6万人を虐殺したといいます。この時も、行長降伏開城の交渉をしましたが、清正徹底攻略を主張したといいます。明国軍朝鮮軍を助けることなく、これを傍観しました。


 それでも行長は、秀吉講和条件を次のように変えて、7月には家臣である内藤如安を明国の首都である北京に向かわせました。


『日本国は、明国を慕う心を朝鮮に託して伝えようとしましたが、朝鮮がこれを隠して明国皇帝に達しませんでした。兵を用いたのはこのためであり、皇帝にはむかうつまりはございません。秀吉に国王の号を与えていただきたい』


 内藤如安は、明国側の意向により遼東足止めを食い、ようやく北京に到着したのは、翌年の文禄3年12月でした。明の朝廷でも、どう対処するのか意見が分かれていたためだといいます。結局、『日本軍がすべて朝鮮から撤退するのであれば、秀吉を日本国王にする』という決定になり、明国の使節は翌年の文禄4年9月1日に秀吉と面会することになります。


 秀吉はこの年の7月、甥の関白豊臣秀次切腹に追い込んでおり、心身ともに老化が目立つようになっていました。同席した小西行長は、当然のごとく明側の講和条件の内容を、通訳に『秀吉を明国の皇帝となす』と言い換えるように命じました。ところが、その通訳が加藤清正と通じていたようで『朝鮮から撤退すれば、秀吉を日本国王になす』と明の意向を正直に事実を伝えてしまったため、秀吉激怒します。

 秀吉行長欺瞞交渉の責任を取らせるため、彼の断罪を命じますが、石田三成三奉行同意の上での行長の交渉であることがわかると、しぶしぶながら彼を許します。しかし同時に、秀吉は朝鮮への再出兵を命じたのです。



小西行長が、明と秀吉の間に入って非常に苦心したのかがよくわかりますが、一つだけ行長はへんな色気をだしていました。明国から秀吉への国書の内容の一部に、日本国王大臣行長及び彼と仲の良い石田三成、宇喜多秀家をつけるよう書かせていたのです。

 加藤清正も、朝鮮侵略が不可能であることは最早充分理解していたにもかかわらず、どうして行長の講和交渉を妨害したのでしょうか? そこには、単純行長和平派清正好戦派という組分けだけでは理解できない確執を感じます。

 それは、秀吉の弟である豊臣秀長が病死する前にまで遡った派閥争いに根本的原因がありました。行長・三成らの中央集権政権の考え方と、秀長・徳川家康らの地方分権政権の考え方は、かなり早い時期から対立の兆しがあり、互いに目に見えぬ爆弾を抱えていたのです。


■次回は、慶長の役の勃発から、秀吉の死による終戦までの最終章を紹介させていただきます。