世は群雄割拠の戦国時代。
わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。
1569年、駿河侵攻してきた武田信玄(たけだしんげん)は常陸国の佐竹氏(さたけし)や安房国の里見氏(さとみし)に我が北条を牽制しるよう呼びかけました。
しかし綱成(つなしげ)の嫡男・康成(やすしげ)らがそれらを抑えたのです。
康成は戦前に綱成からあることを言い聞かされていたのです。
康成「父上、佐竹や里見を抑えても越後の上杉輝虎(うえすぎてるとら)が攻めてきたら、さすがに抑えることは難しくなります。」
輝虎さんは里見や佐竹と同盟を結んでいたんだよね。輝虎さんが来たら北条は危ないなぁ。
綱成「輝虎は来ない。すでに大殿が手を打っておる。」
康成「その手とは…まさか…。」
綱成「そのまさかだ。北条は上杉と同盟を結ぶのだ。」
わしは武田の動きを封じるには上杉と同盟し、武田の背後を上杉に攻めさせるしかないと判断したのです。
輝虎さん、同盟は嫌だったみたいなんだ。でも毎年、越後から関東に出兵して越後国内は不満が出てたんだよ。家臣から説得されて北条との同盟を結ぶことにしたんだ。
北条と上杉の同盟、越相同盟(えつそうどうめい)により佐竹や里見は思うように動けなかったのです。
越相同盟の存在を知った信玄は背後の危険を感じたのです。
しかし…これで掛川城(かけがわじょう)に居る今川氏真(いまがわうじさね)を救ったことにはなりませんでした。
掛川城には徳川家康(とくがわいえやす)の軍が包囲していたのです。
家康は信玄との密約を破り、武田と定めた境界線以上に侵攻していたのです。
信玄「家康め!約束を破りおって!我が別働隊を遠江国に攻めさせよ!」
この動きに焦った家康は今川との和睦を模索、氏真としてもこれ以上の籠城はできぬと判断したのです。
結果、氏真は家臣の助命を条件に掛川城を開城したのです。
この時、家康は氏真を再び駿河の国主につけると約束していたのです。
家康さんはやっぱりタヌキだね。この後、氏真さんは駿河の国主になることはなかったんだよ。
北条、徳川、今川の動きにより信玄は駿河から撤兵していったのです。
信玄「家康は目障りじゃ。しかし、もっと目障りなのは北条!我が武田の力、見せてやらねばなるまい!」
わしも綱成もこのまま信玄が黙って引き下がるはずはないと感じていたのです。
綱成「大殿、信玄は必ず、この小田原、目指して攻めてくるでしょう。」
氏康「うむ。忍びの報せでは戦備えをしたままだ。我が領地の城には備えを命じておる。」
綱成「武田を叩くには上杉が信濃から攻めることが必要です。そうすれば武田は甲斐から動けなくなります。」
氏康「上杉との同盟の盟約に武田攻めはあるのだ。信玄、来い!」
1569年10月、予想どおり、武田軍は我が小田原目指して攻めてきました…。
つづく…
次回をお楽しみに〜
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