「はあっ、はあっ……!」
無我夢中で廊下を疾走し、同時に階段を駆け上がる。
すれ違う者たちは皆一様に私を見て目を丸くしていたが、そんな彼らも私の視界からはすぐに消えうせてしまう。
「……っ、ぁ……!」
私は、走っていた。
衝動的に、特に何の目的もなく。体力を消耗せずに走る為に身に付けた技術など頭から剥がれてしまったように、息が切れんばかりの無茶苦茶な走り方で。
階段を登っているのだって、上に用事があるからではない。そこに階段があったから気がつけば登っていたのだ。
「く……っ」
駆ける。
駆ける。
駆ける。
何十秒か、何分か、はたまた何十分かは定かではないが、私にとってはついさっき教室を飛び出してきたのが昨日の事のようにさえ感じてしまう程に、私は走っていた。腰まで伸びた自慢の長髪を振り乱して廊下を疾駆する私の姿は、傍から見ればこれ以上無いほど滑稽に映っていたに違いない。
だが、そんな懸念すべき事すら脳から追い出されてしまう程に、私は〝ただ〟走っていた。
14話「Lonely Girl's an Elegy(中編)」
バンッ!
鉄格子の砕ける鈍い音が弾ける。
私は叩き壊さんばかりに乱暴に、思わず目の前の分厚い扉を蹴破っていた。
「……っ、ふうっ……」
知らず知らずのうちに向かっていた場所。
自分でも特に行き先として意識していたつもりでは毛頭ないのだが、気づいたら私は校舎の一番上の階――青空を望む屋上に来ていた。さっきの扉は、そういえば屋上への重い扉だった。
「……いつのまに……」
呆然としたまま、私の心情とは裏腹にいつもと何ら変わらぬ空を眺める。
「…………」
――すると、行き止まり故に走ることが止まったからか、私の脳はさっきよりかは少しだけ冷静さを取り戻した。
熱くゆだった薬缶が蒸気を噴き出すかのように何とか頭をクールダウンさせると、汗でびっしょりになった額を思わず袖で拭う。
――ただ走るだけでこんなに汗をかいたのも久しぶりだ。
そこで。
「……あれ?」
ふと、気がつく。
「……何をしていたのだ、私は?」
若干熱の引いた頭で冷静になって考えて見ると、どうして私はこんな所まで来たのだ? いや、そもそもどうしてこんなに無茶苦茶に走る必要があったのだろう。
「む……」
少し――クラスメイトに陰口を叩かれただけで取り乱して教室から逃げ出すとは、私もとんだ未熟者だったようだな。父の教えでは『どんな時でも冷静沈着であれ』とあったというのに――こんな事では槍埜流の跡継ぎとして失格だ。
まったくとんだ醜態を晒してしまった。恥ずかしい。
「――ははっ」
少し、自嘲気味の笑いを漏らす。
青空を吹き抜ける春の風が、私の汗ばんだ額から熱を奪い取っていった。
「……帰るか」
まだ動悸はうるさいものの、一時と比べれば遥かに冷静になった身体で開け放された扉へと歩きだす。
ここに来るまでの自分が嘘のように、それこそ――何かの勘違いだったかのように静まっているのが自分でも分かった。
「……あ」
そういえばさっき思わず扉を蹴破ってしまった。鍵が破損してしまったな……どうしよう。後で先生に誤りに行かなければ。
それから、高峰さんに昨日のお金を返しに行かなければだったな、やる事は沢山だ。
それと……伊藤たちには悪い事をしたな、私の都合で一緒に帰れなくなってしまって。
そんな事を、つらつらと考えていると。
「槍埜さんっ!!」
突然、奴は現れた。
「……え?」
破壊されて歪んだ扉の隙間から、飛び出すといった表現が似合うように勢いよく。
私の――〝クラスメイト〟の、伊藤祐樹が。
「……い、伊藤?」
「あ、いたいた! もう、心配させないでよ!」
伊藤はなぜか珍しく眉を歪めたまま、肩で息といった風に困憊した様子で私の前まで近づいてきた。
「もう……いきなりいなくなっちゃうから心配したよ!」
「す、すまん……。しかし、お前どうして屋上に……?」
「廊下ですれ違った人に聞いていって、槍埜さんが走って行ったって方角を教えてもらったんだよ。そしたらここに着いたの」
「そ、そーか……」
……。
(む……)
ふと、沈黙が流れる。二人とも続く言葉が見つからず、思わず黙り込んでしまった。
辺りに聞こえる音は風が制服を揺らす音と、不規則に続く落ち着かない伊藤の呼吸音だけだ。
「そ……」
私はその沈黙が少々心苦しく、自分から口を開いてみることにした。
「そういえば、お前どうして私の事など追ってきたのだ……?」
「え?」
すると目の前の伊藤は一瞬だけ目を丸くした後、汗ばんだ顎に人差し指を当て、妙な声をあげてうなりだした。
「……な、何でだっけな……」
「何? 理由が無いのに私の事を追っていたのか?」
どれだけ暇な奴なのだ。意味が分からん。
私は呆れたように溜息をつく。
「で、でも……」
すると伊藤は、自分の中でその答えが見つかったのか――は定かではないが、はっきりとした意思を込めた目で私の事を見つめ、言った。
「……槍埜さん、もしかしたら何かあったんじゃないかって思って」
「……!」
「だって、いつも落ち着いてる槍埜さんがさ、あんな風に取り乱した感じで教室から出て行くなんて普通じゃないって思ったっていうか……その、一応心配になって。あっ、僕の勘違いだったら謝るけど……」
――何だ。
心配してくれていたのか。
こんな私を。
「……っ」
その瞬間。
さっきまでの自分の心情が、途端に浮き彫りになっていく感覚が浮上した。
(伊藤……っ)
何故さっき、私があんなにも慌てていたのか、動揺していたのか。
その理由が――目を逸らしたかったその現実が、途端に私の視界に多いかぶさり、埋め尽くす。
「……くっ」
「槍埜さん?」
ああ、どうしてお前はそんなに――優しいのだ。
「何でも……ないぞ?」
消えてくれ。
「別に、ちょっと外の空気が吸いたくなっただけで――」
私の前から消えてくれ。
「そんなに心配するほどの事でもなかろう」
お前の顔を見ていると、醜い自分が浮き彫りになる。
「だから――ほら、お前は山崎とでも一緒に帰っていればいいだろ」
だから、もう。
「第一、私は私で他に用事があるしな。そうだ、扉の鍵も修理しておかねば――」
その優しげな顔を、私の前には――
「嘘」
「……え?」
突然、伊藤が言葉を発した。
「……」
その表情は、奴には珍しく――似合わないほどに、妙に険しかった。
「槍埜さん、嘘ついてない?」
「な――」
問いただすような視線が刺さる。
「ど、どうして。別に嘘など……」
「やっぱり、さっき何かあったの? それなら僕に言ってくれない?」
「――う」
ど……どうしたというのだ、伊藤。
私はお前の、そんな目を知らない。
「僕は槍埜さんの、そんな目を知らない」
「……!」
痛い。
「な、何故そんな事――!」
「分かるよ」
「……何?」
伊藤は目を伏せたまま、淡々と言葉を発する。
「僕達、まだ出会って一ヶ月くらいしか経たないけどさ。でも、それでも色んな事があったよね。僕が山崎君と友達になった時には槍埜さんが色々と関わってくれたし、皆で僕の家に遊びにきたりとかもあった」
「……」
「そういうことを繰り返してたらさ。何となくだけど、分かるようになるんだよ。槍埜さんだったら――笑うときはこういう風に笑うんだ、とか。怒るときはこういう風に怒るんだ、とか。表情のちょっとした違いとか、僕なりに少しは分かるようになってるつもりだよ」
「……それが、どうしたというのだ」
「今の槍埜さんは、僕の知らない槍埜さんだ」
「……っ」
私は思わず、大人げもなく声を荒げた。
「――それが何だというのだっ!!」
瞬間、辺りの空気が震撼するのが分かる。
「貴様などに私の事など分かって貰ったからといって、それがいったい何だ! 何になる!」
ああ、私は何を言っているのだ?
馬鹿ではないのか? 伊藤は私を――
「そんなもの、貴様のただの思い込みではないのか! 自己満足ではないのか! 第一、私がどうなろうが貴様には何の関係もなかろう!!」
――心配して、くれているのに
「……るよ」
「え?」
「関係あるよっ!!」
伊藤は――本当に、その華奢な体つきからは想像もつかないほど、いきなり声を荒げた。
「な――」
伊藤が声を荒げる所を、私は初めて見た。
「……どうしてそんなこと言うんだよ……。もしかしたら槍埜さんに何かあったのかもって思うし、そしたら心配にだってなるだろっ! そんな心配だってしたらいけないっていうの!?」
その口調に触発されたのか、私も意図しないうちに熱くなってしまった。
無意識に、拳を握る。
「う……うるさい!! 貴様などに心配される筋合いがないと言っているのだ! 第一、貴様はお節介すぎるぞ!!」
「そっ、そんなこと言うなら槍埜さんのほうがよっぽどお節介焼きじゃないか! 人のこと都合も考えずに振り回したりするし――」
「それは……お前が意志薄弱だからだ! だから私が引っ張ってやらなきゃ……」
「そんなの勝手な言い訳だよ! 僕は……槍埜さんが傷ついてるんじゃないかとか、一人で色々考え込んだりしてるんじゃないかとか、そういう事が心配で――」
「……うっ」
伊藤の言葉に、不意に胸が苦しくなる。
どうしてだ。
どうしてお前はそんなに優しい。
(く……っ)
そんなに優しくされたのでは――
「苦しいでは……ないか……!」
「……え?」
その優しさで、私の醜い罪悪感が増すばかりだ。
「……っ」
私がその言葉を発した後、熱くなっていたさっきまでの空気は一気に冷えた。
伊藤はぽかんとした表情を下げて私を見ている。対する私もさっきまでのテンションの高さは急激に落ち着き、途端と冷静な心持になる。
「……」
私達の間に、沈黙が流れる。
「――なあ、伊藤よ」
そして私は、無意識のうちにその言葉を紡ぎだしていた。
あれほど言わないと、決めていた言葉だったのに。
「私達が初めて話したときの事を、覚えているか?」
「……うん、覚えてるよ。槍埜さんが、まだ誰とも話せてなかった僕に話しかけてくれたよね」
そう。あれはまだ入学してから一週間も経っていなかった頃。
私の目の前の席で、休み時間じゅう一人で座っている一人の暗そうな少年に、私は声をかけた。
《おい》
《お前、他の人と話さないのか?》
辺りを見渡せば楽しそうな話題で盛り上がっている複数の生徒達。
そんな明るい雰囲気から隔絶した――あるいは隔絶「させられた」ような目の前の伊藤祐樹に、私は声をかけたのだ。
《話し相手がいないのなら、私が友達になってやろうか?》
それは。
――他でもない。
『私が友達を作るため』だった。
「わ……私はな……、伊藤……」
自分でも分かるような、震える声でそう告げる。
これを聞いたら伊藤は、恐らく私の事を笑い、そして幻滅するだろう。
だが……仕方ない。それが今までの私のツケなのだ。
今までさんざん〝強そうに〟振舞ってきた、私の受けるべき罰なのだ。
「私は昔から――〝友達〟がいなかったのだ」
そう。
幼い頃より槍埜流の跡継ぎとなるため、私は父上より武術の訓練を日夜受けてきた。
物心つく頃には私はどこの学校でも無敵と言えるまでの武術家になっており、体育は勿論のこと全教科の通知表は5以外取った事が無い。そんなあまりにも〝普通〟とは隔絶したような存在が、〝普通〟と気楽に友達になれたり、ましてや楽しげな会話などできるはずもなかった。
クラスや塾の人間は、そんな私を恐怖し、畏怖し。
常に避けられるように、あるいは崇められるように。
どうあっても、〝対等な関係の友達〟としては見てくれていなかった。
そして、その心中の寂しさを紛らわすかのように、私はますます自らの武術を磨き上げることに没頭した。
内心は、ずっと〝友達〟が欲しかったにもかかわらず。
気楽に他愛もない会話ができて、何でも相談できたりする。そういう〝友達〟が欲しかったにも関わらず。
だが、私の願いは叶わなかった。
――それはそうだろう。
小学校の頃より既に、クラスの気弱な女の子をいじめていた男子八人と喧嘩して、うっかり全員保健室送りにしたような女の子と誰が友達になりたいというのだろう。
中学校の頃より既に、手刀で大岩を叩き割れるような女の子と誰が友達になりたいというのだろう。
野生の猛獣を踵落としで撃退できるような女の子と、誰が友達になりたいというのだろう。
私はどうあっても、どう転んでも、〝普通〟ではなかったのだ。
月日は経った。いつしか私はそんな孤高な人間のまま高校生になっていた。
そこで――高校に入学した私は、ある決心をした。
一人でいい。一人で良いのだ。
何でも気楽に話し合える、〝友達〟を作ると。
……だが、現実は残酷だった。高校になったからといって私が〝普通〟でないことが変わる訳も無い。
あたりは一週間も経てば既にいくつかの決まったグループが出来上がり、未だ誰とも仲良くできていない者など私くらいのものだった。
――しかし、私は見つけたのだ。
目の前の席に座る、見たところ私と同じような。
どこのグループにも属していない。
どこの誰とも話していない。
気弱な一人の少年の、小さな背中――
伊藤祐樹を、見つけたのだ。
「――だから私は、そんなお前に声をかけた。そして……無理矢理〝友達〟にしたのだ」
私は自らの境遇から、伊藤に最初に声をかけたいきさつまでを、殆ど包み隠さず話した。
話していて、自分で自分に怒りが湧いてくるような情けない話である。
「ふふ……まったく私は卑怯な奴であろう? 自分に〝友達〟が欲しいがために、だからこそ私は誰とも話していなかった、他に誰とも友達がいないと踏んだお前に声をかけたのだ」
自嘲気味に言っている内に、情けなさに涙が出てくる。
ああ、私はどうしてこうも弱く、醜く、情けなく。
「私は、友達のいなかったお前を――自分のために利用したのだ」
反吐が出るほど、馬鹿らしいのだ。
続く
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14話です。今回は意外とすんなり書けました。
予想せず長くなったので、中編を挟んで三部構成になります。
この辺は前から書きたかったのに、いざ書いていると色々と複雑です。
なので後編が終わるまでは、ここであんまり作者がとやかく言うのは止めておきます。
しかし、哀しきかな作者の力量が追いついていないのが虚しいところ。後から読み直すとアラが良く分かる。
あ、前編含めてタイトル変えました。こっちの方がいいかなと思い。すみません。
意味は、『一人ぼっちの女の子が歌う哀歌』。
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