「む、伊藤か、お早う!」
 いつもよりも少し早めに登校した朝。僕が教室に入るなり、最早この一週間で聞き慣れたような声が僕の耳に響いた。
 出席番号二番という扉に近い席に座る、槍埜さんだ。
「うん、おはよう槍埜さん」
 軽く挨拶を返して自分の席に鞄を置く。こうしてクラスの人と「おはよう」なんて言葉が交わせるのも、本当に久しぶりだ。
 何気なく教室を見渡してみると、クラスメイトはまだ半分も登校していないような状態だった。いつもの休み時間が騒々しく感じるせいか、今はやけに閑散としているような印象を受ける。
「時に伊藤、今日は早いな」
「あ……そうだね、今朝はちょっと早く目が覚めちゃって」
 槍埜さんは僕と席が前後であることも相まって、よくこういった雑談を振ってくる。前はこの人の強引さもあって少し緊張したけど、最近は自分でも普通なくらいに話すことができるようになった。
 そのときの話の内容は、大抵なんでもない事が多い。それこそその日の天気から会話がはじまることだってある。ただしテレビとかファッションとか、普通の女子高校生が興味を持つようなことはほとんど話題に上がらない。僕もそんなに興味はないけど、確かに槍埜さんもそういう事には感心は薄いみたいだ。
 ……彼女自身がこんなに美人なのだから、逆にファッション誌のモデルになってもいいくらいなんだけど。

 ――それにしても、よく僕みたいな人と話し続けられるなぁ。こうしていると、槍埜さんは本当にあの人に似ていると感じる。
 何でもかんでも自分のままに引っ張って行ってしまう強引な所なんて、特に。



       Walkers 10話「久遠寺照」



「……うーっす」
「!」
 しばらくすると、また聞き覚えのある声が教室の扉から聞こえた。
 今まで槍埜さんのほうに首を向けて話していたので、僕は声の方へと、少しだけ躊躇いを含みながら振り返る。
「…………」
 教室に入ってきたその人と目が合った。
 昨日会った、山崎君だ。
「む、おお山崎か、お早う」
 槍埜さんがいたって軽い調子で山崎君に声をかける。――この人、本当にさっぱりしてるなぁ。
「……」
 山崎君はそれに対しては無言のまま、少し苦い顔で槍埜さんから視線を逸らした。やっぱりまだ少し、この間の事を根に持っているのだろう。そりゃあクラスの人が見てる前であれだけ派手に吹き飛ばされたんだから当然といえば当然だけど。
 ――すると。

「……よう」

 山崎君は僕の方を見て、そんな短い言葉を吐くように口にした。
 一瞬、心臓の拍動がびくんと跳ねた気がした。
「お、おはよう、山崎君……」
「…………ああ」
 少しばかりの沈黙を孕みつつもそれだけの会話を交わすと、彼はそそくさと僕達の席とは対角線上にある自分の席へと向かった。途中に会った彼の友達らしき人にも同じような軽い挨拶を交わしながら。
「……何だあいつは。私の挨拶は無視するのに伊藤には声をかけるのか。全く私も嫌われたものだな」
 槍埜さんは不満そうにそう呟いていたけど、僕は――
(声、かけてもらった……)
 気分が高揚するような、不思議な嬉しさを抱いていた。
 ただ声をかけてもらっただけなのに、思わず顔がにやけてしまうほど嬉しい。きっと他の人が聞いたら不思議に思う事かもしれないけど。
「……ふふっ」
 僕にとっては今のこの一瞬だけでも、〝自分が少しは変われたのかな〟と実感できる一瞬だった。
「む? どうしたのだ伊藤。そんなに嬉しそうな顔をしおって」
「……槍埜さん、実は昨日ね――」
 それから彼女には、昨日のことを少しだけ話した。
 ――参ったなぁ。何でこんなに嬉しいんだろう。

 〝友達〟と交わす、何気ない時間が。


   ■■■


「……あい、ほんじゃあ昨日言ってた通り、今日の理科は実験な」
 その日の三時間目。僕らのクラスの担任でもある理科教師の三河先生は、理科実験室の教壇でひげの残った頬をぼりぼりと掻きながら黒板にチョークを走らせていた。いつも着ているしわくちゃの白衣が、実験室だと妙にさまになって見える。
 ……どうしてもやる気がなさそうに見えるのは、いつもの通りだけど。
「えー……と、今日の実験は、二酸化マンガンっていう黒っぽい粉的なヤツに過酸化水素水をブチ込んで酸素が発生するのを記録しましょうって事でね、まぁみんな適当にやってくれや。以上」
 表現の仕方にやや問題ありなのではないでしょうか、三河先生。
「あ、そうそう。一応実験器具には限りがあるから、四人で一班になって実験してくれ。そんだけなんで、全員実験終わったら起こしてくれ、先生は寝るから」
 それだけ言うと、三河先生は本当に教壇に突っ伏したままいびきをかき始めてしまった。
 ……いつも思うけど、こんなに自由な先生は他に見たことが無い。一応教師としてやるべきことはきちんとやっているみたいなので悪い人ではないんだけど……。私立校の教師って、個性豊かだなぁ……。
 とりあえず実験は四人で行うみたいなので、一応周りを見渡してみる。他の人たちはみんな中のいい人たちと班になっているみたいだけど――。
(! そ、そうだ、山崎君と一緒になれないかな)
 ふと、彼のことが頭に入ってきた。せっかく仲良くなりかけているみたいだし、ここはもう少し勇気を出して一緒の班になりたいところだ。山崎君は他にも友達多いみたいだし、ぐずぐずしてたら取られてしまう。
「や、山崎……君っ」
 がやがやと人の声が飛び交う理科室内で、山崎君の姿を探そうと背伸びをする。
「……や、やま……」
 しかし、なかなか見つからない。もしかしたらもう既に他の班にいっぱいになってるかもしれないけど……。ううっ、もう少し早く行動するべきだった……。

 すると。
「う、槍埜っ! 何すんだ、引っ張るんじゃねぇ!! っつーか触んな!」
「男の癖に喧しい奴だな。私達は〝友達〟なのだから、一緒の班になろうと言っているだけではないか」
「だっ、だからテメェは違うって……!!」
 教室の向こう側で、必死に抵抗する山崎君の手を引っ張って強引に拉致する槍埜さんの姿が見えた。
 彼女はずんずんとこちらに向かってくると、まるで罪人を捕らえた刑事のように得意げな顔で山崎君を無理やり僕の隣の席へと座らせた。
「う、槍埜さん……」
 ――何だろう。ここまでくると、逆に彼女に清々しささえ覚えてしまう。
「ってぇ……てめぇ槍埜……!」
 山崎君は槍埜さんに対して睨む様な視線を送ったけど、威風堂々とした雰囲気を纏って佇む彼女と視線が会うと、途端に気まずそうに首を下に向けた。……やっぱり山崎君、槍埜さんの事は苦手みたいだ。
「まぁまぁ良いではないか。見たところお前達二人とも最近仲がよくなってきているようだし、親睦を深めるという意味でも悪くあるまい」
「……っ」
「あ、えっと山崎君。嫌じゃなかったらだけど……一緒の班になれたらなぁっているのは僕も思うし……どうかな」
「……わぁったよ……。どうせこの暴力女がいる限り逃げられねぇし」
 すると槍埜さんは満面の笑みを浮かべ、腰に手を当てて言い放った。
「よし、これで三人だな! 私に伊藤に山崎に……あと一人はどうするか」
「俺は別に誰でもいいけどな」
「僕も特に……」
 すると、ふとすぐ近くから声が聞こえた。

「あ、じゃあ私でいいですか。他の人たちはもう班で固まってしまったようなので」

「え?」
 僕達は示し合わせたようなタイミングで声の方に首を向けると、そこには――
「ここに座って良いんですかね」
 ――特にクラスで見た覚えも無い、背の低い男子が立っていた。
「どうも、久遠寺(くおんじ)といいます。よろしく」
 彼は軽く頭を下げて槍埜さんに挨拶すると、大き目のテーブルに余っていた四つ目の席にすとんと腰を下ろした。
 久遠寺君といったその子の前髪は目を覆うようにかかっており、片方の手には教科書と一緒に小さめの文庫本を何冊か抱えている。ぱっと見てあまり明るそうなタイプにも見えないけど、だからといってそこまで暗い人といった印象も受けない人だ。……というか、こんな人クラスにいたっけ?
 ふと隣を見ると、山崎君も怪訝そうな顔で彼を見ていた。どうやら山崎君にも見覚えは無いらしい。
 すると。
「あ、そちらの方は伊藤君に山崎君ですね。いやぁ、こうやって話すのも久しぶりですねぇ」
「……え?」
「……あ?」
 久遠寺君はさも僕達と知り合いであるかのように、気軽そうに声をかけてきた。どういうことだろう、僕と山崎君が忘れてるだけで、どこかで知り合ったことがあるのかな……?
「……?」
 僕達が何とも返さないことを不思議に思ったのか、彼はいったん首をかしげる。
「……いやですねぇ。私ですよ。小学生の頃同じ学校だった、久遠寺照(てる)ですよ。忘れたんですか?」
「え? 同じ小学校……?」
 そう言われて、小学校のときの記憶に糸を伸ばしてみる。確かに久遠寺なんて珍しい苗字なら印象に残りやすい筈だけど……。ダメだ、やっぱり思い当たらない。
 すると、隣で山崎君が思い出したように「あっ!」と声を上げた。
「お前……一年と二年のときに同じクラスだった、あの照か!?」
 彼がそう言うと、久遠寺君は嬉しそうに笑顔を見せる。
「はい、その照です。懐かしいですねぇ。そういえば伊藤君とは同じクラスになったことはなかったですからね」
 どうやら、久遠寺君は山崎君と同じ小学校で、同じクラスだったらしい。
 成る程、それなら山崎君と面識があるのは……って、あれ? そうなると……。
「……僕と山崎君って、小学校同じだったっけ……?」
「そうですよ、僕達三人は同じ楓小学校出身ですよ」
「……俺はお前のことは覚えてるけど、伊藤も同じ小学だったっけか……?」
 なんだかここの一帯で記憶の探りが飛び交っている。確かに同じ学校の卒業生でも、同じクラスになったりしない限り案外印象には残らないものだけど――。
「そ、そうだったんだ――じゃあ、久遠寺……君」
「はい、伊藤君も覚えていますよ。入学してからお二人が同じクラスだという事は知ってはいたんですが……話しかける機会も特になかったもので。まぁこうやって同じクラスになった事も何かの縁ですし」
「……っつーか、俺もお前と同じクラスだったなんて知らなかったけどな」
「む? なんだなんだ、私だけ会話に置き去りになっておらぬか?」
 槍埜さんが心配そうに首を振る。

「まぁ……そういう事なので、これから一年、よろしくお願いしますね、伊藤君、山崎君。それから――」
「わ、私は槍埜凛という。宜しくな、久遠寺」
「あ、槍埜さんですよね、存じ上げてますよ。何せ入学当初にあの山崎君を保健室送りにした人ですから」
「ばっ……うっ、うるせぇな!!」
「あ、あはは……」
 気づけば、この四人が同じ班として固まっていた。
 久遠寺君か……すっかり忘れてけど、帰ったら小学校のアルバム見てみようかな。



「それにしても喉が渇きましたねぇ。この水って飲んでいいんですか? 頂きます」
「おっ、おい照! それは実験で使う過酸化水素水……!」
「(ごくっ)え、そうだったんですか? でも結構美味しいですけど」
「だ、大丈夫なのかよ。あ、そういやぁお前……給食の時カレーライスの上にプリン乗っけて牛乳かけて食ってたりしたっけ……」
「う、うぇ……何そのちょっと簡単には想像できない食べ物」
「えぇ? あれ結構いけますよ? むしろ何故皆さんカレーとプリンを分けて食べるのか……」
「もういい……もう分かったから喋んな、照……」
 


 続く




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四人目のキャラクター、久遠寺照(くおんじ てる)。今回が初登場です。
何気に一話以来登場の機会が無かった三河先生も、今回チョイ役として登場させてあります。
個人的に「Walkers」で好きなキャラは設定の段階から照だったので、書けて満足。
今回は祐樹の一人称。ホント安定しなくてごめんなさいね。

最後の方、照は悪食って設定です。
実はシメに困って、その場で思いついた設定っていうのは内緒。

過酸化水素水は殺菌にも使われる成分ですので、ちょっと口にしたくらいなら大丈夫ですよ。
ただしごくごく飲むモンじゃないので……照、お前もう少し危機感持てよ。
で、祐樹が女々しくて書いててウザいのはデフォルト。

最近腕が落ちたなぁって痛感する。