「……っく……」
 一つ一つの梯子をゆっくりと掴みながら、俺は少しずつ上へと昇っていく。
 遥か上の地上から響いてくる衝撃は段々と強くなってきており、両手両足の四点のみで垂直に支えられている俺の身体は、今より強烈な衝撃が伝われば簡単に吹き飛ばされてしまいそうだった。

 ――何故、今俺はこの梯子を昇っているのだろう。
 地上へ行けば異常な数の天界獣がいる。そんな事は分かっている筈なのに。
 そんな所へ俺なんかがおちおち出て行けば、一瞬で殺されるのが目に見えているであろう筈なのに。
 それでも俺の両腕は、今より上の梯子を掴むことに必死だった。

 あの少年が。コバトがいるかもしれない。
 その〝希望〟――或はこんな状況だからこそ、誰かに助けを求めたい〝不安〟や〝孤独〟を持って。

 俺は、梯子を登り続けた。


 ――――――――――――――


「着いた……」
 最後の梯子を登り終えた時――〝その光景〟は俺の目に、実に簡単に飛び込んできた。

「何だよ、これ……」
 目を疑う。これが……この世の光景なのか。
 到底信じられない。また、俺も今までの人生でここまで狂気的な光景を記憶した覚えは無かった。


「ゲギャアアアアアア!!」
「ガアアアアアアア!!」
「キキキキキキキ!!」

 何十体もの天界獣……と思われる生物も含め、俺の視界はそれらによって埋め尽くされていた。そいつらの悍ましい咆哮が、まるでコーラスのように重なり合い耳をつんざく。
 中には今までに見たことのあるタイプの――ヘドロの塊のようなもの――もいたが、ちらっと見た経験のある〝人型〟。更に上空には、まだ見たことのない大型の怪鳥のような姿をした空を飛ぶ化け物までいた。
 その数、見た限り三十……いや、少なくとも四十体はくだらない。

「…………!」
 ――ふいに、突然俺の身を〝恐怖〟が襲ってきた。背筋にぞっと悪寒が走り、一気に汗が出て来る。
 初めて見た時の〝驚き〟のほうが大きかった為か。それを理解し、恐怖する方が遅れて来たようだ。
 人間とは不思議なもので、それがどんなに〝恐怖〟を感じる対象であっても、それへの理解が追いつかない限り畏怖する事などないのである。
 知らない物には、怖がりようが無いんだ。

 つまりその光景は俺にとって、〝恐怖〟だとか〝畏怖〟だとか、そういうレベルをとっくに越えていたわけで。

 ――そして、理解する。
 俺は知っている。あの天界獣が、たった一匹でどれほどの強さを持っているのかって事くらい。
 それが、この異常な数。
 分かってるからこそ、俺の身体は……震えが止まらないんだ。



           第18話 〝その一瞬〟



「……ゲ?」
 ふと、一匹のヘドロの塊タイプの天界獣が、首をゆっくりとこちらに向けた。恐らく俺の気配を感じたのだろう。
 その視線は、地上に出てきたばかりの俺の方に向き……
「ゲギャアアアアア!!」
 気付かれた。見事に視線がバッティングしてしまった。
 しまった! ……と思っても時既に遅し。その天界獣は凄い速さで転がるように走りだし、咆哮をあげながら俺の方へと突進しだした。
 この時ばかりは、〝資格者〟として生まれてしまった自分を恨まざるをえない。俺の足は震えて少しも言うことを聞かず、その場からぴくりとも動けなかった。
「――っ!!」
 一瞬で、突っ込んできた天界獣の大きく開いた口が目の前に迫る。
 俺は完全に腰が抜けたまま、迫り来るその光景を黙って見ている事しか出来なかった。

 やばい、逃げられない――!









 ジャララララララッ!!

「うらああああっ!!」


 視界の片隅で、どこかで聞き覚えのある音と声が聞こえた。

 瞬間、俺の右腕は一本の鎖でぎゅるっと搦め捕られ、その途端、急激にそっちに引き寄せられた。
「うわあああっ!!」
 凄いスピードで地面を引きずられ――と言うよりかは、地面を掠
かす
るようにすっ飛びながら――気がつくと、誰かの足の下で停止していた。
 ……背中がひりひりする。

「……ってて、一体なん……」
「アホか!! お前何でこんな所に居んねん!!」
 俺が訳も分からないまま背中を摩るのと同時に、すぐ隣から息を切らした怒声が聞こえてきた。
 びっくりして上を見上げると――そこには、両の手の平から鈍く光る鎖をぶら下げた少年、コバトが立っていた。
「お前、今ワイが居らんかったらアイツに喰われて死んどったんやで!? 無茶苦茶やらかすんもええ加減にせぇ!! ドアホ!!」
 彼はぜぇぜぇと肩で息をしつつ、俺の右腕に絡まった鎖を強引に引っ張るように解いた。
 俺はというと――今回はすぐさま状況が理解できた。
「……助けてくれてありがとう。やっぱりここにいたのか……」
 一応礼を言いつつ、やっと街の住人に会えた安堵から溜息を漏らした。
「お前、昼間に会った……確か飛鳥とかいう奴やったな。何でここに……!」
「悪いが、それについて今説明してる隙はない。それより何処かこのフォレストの地下から、離れた所まで移動できる隠し通路って、お前知らないか!?」
「はぁ!? 何を言うとるん――」

 コバトがそこまでいった途端、俺の視界は再び濃い影に覆われた。


「ゲギャアアアアアア!!」
 今度は三体の天界獣が同時に、覆いかぶさるように俺達に突っ込んで来たのだ。俺は話しに夢中で、周りに全く注意が行っていなかった。
「うわあああっ!!」
「……今はこいつらを何とかすんのが何より先決やな。飛鳥! ワイから離れるなや!!」
 すると——コバトの握った両手の拳が強い緑色に光り出した。
 そこから先は、一瞬の出来事だった。

「ふんぎっ……!!」
 精一杯〝溜め〟を作るように上半身を後ろにのけ反らせ、それに比例するように彼の両拳に宿る光も強くなる。
「……でりゃああっ!!」
 次の瞬間、コバトが握った拳を離すと同時に何十本、いや、何百本にも別れた大量の鉄鎖が、二つの手の平から重なり合うようにして放出された。
 その鎖はそれぞれ一本ずつが斜めに重なり合い、お互いがお互いの交点を接続するようにして……。
 最終的に一瞬で形作られた物は、それは漁業で魚を取るときに使われる地引き網のような、巨大な一つの〝網〟だった。
「……〝蜘蛛の網
スパイダーズ・ネット
〟ォ!!」
 網は目の前に展開された。鎖はまるでそれ自体が意志を持っているかのように、襲い来る天界獣達を一瞬で包み込む。
「これで三体やッ……!!」
 網はすぐに閉じ、丸まったまま地上にドスンと落下した。中に閉じこめられた天界獣は苦しそうに藻掻
もが
いて網に爪や牙を立てるが、鉄鎖はびくともしない。どうやらあの鉄鎖は想像以上の強度のようだ。
 何故人間の手の平からあんな鎖が出てくるのか……初めてあったときも驚いたが、その理由が分からないほどそろそろ俺だってバカじゃない。
 
 こいつ——コバトは、ギルと同じ〝資格者〟だ。

「ふぅ……危なかったでぇ……」
 コバトは俺の横で額の汗をぐいっと拭った。とりあえず今の天界獣の3体は確実に捕まえてしまったが、眼前に映る残りの数は減ったのか減っていないのか分からないほどだった。安心するにはまだ早すぎる。
「おいお前! 今ならまだ間に合う! ワイがこいつらの気ィを引くから、その内に地下に逃げぇ!!」
 コバトは息が上がったままそう叫んだ。
 ……しかし、俺はその言葉に従うことはできない。この絶望的な状況を、一体どうやってこいつに説明したらいいのだろうか。俺はよろよろと立ち上がると、切り出しにくくも〝それ〟をコバトに伝えた。
「……駄目だ。こいつらには地下にも街があるって事がバレてるらしい。今さら地下に逃げ込んだって、袋の鼠にされるだけだ!」
「な、なんやと……!!」
 絶望的な表情を浮かべ、こちらを凝視するコバト。——そうさ、俺だって何が何だか分からないんだ。いきなりこんな化け物の大群に前触れもなく襲われたってだけで、俺の頭はどうにかなっちまいそうで——。
「……ほんなら、どないすんねん!」
「今残されてる方法といえば、この街の地下からどこかに脱出できる方法がないかどうかだけだが……」
「そんなもんワイは知らんで! どっちにしろ、今から下のジジィどもを呼びに戻っとったんじゃあ、こいつらに地下に進入されてしまうやろ!!」
「……くっそ……どうすりゃいいんだよ!!」
 絶望に駆られた心境で、俺はがっくりと膝を落とす。
 万事休す。最後の頼みだった希望も、ここに来てとうとう潰
つい
えてしまった。

 だが。
 コバトは違った。一切の落胆なく、目の前で唸る天界獣達に拳を向けている。
 その眼差しからは〝絶望〟こそ浮かべど、〝諦め〟などは微塵も感じられなかった。
 ——すると彼は歯を食いしばりながら、小さくぼそっと漏らした。

「もう二度と……こいつらに殺される奴らなんて見たくないんや……」
「え?」 
 その言葉は、よく聞こえなかっ……。





 ドスッ




 ——一瞬。隣で、鈍い音が響いた。

 振り返ると。


「…………は?」
 コバトの身体が——血塗れで横たわっていた。





 膝に力が入らないまま、その身体を恐る恐る覗き込む。
 彼の身体には……右の下腹部にテニスボールくらいの大きさの風穴が空き、そこから止めどなく鮮血が溢れ出していた。何かで刺されて貫通したような傷跡だ。
 あまりにも一瞬過ぎて、何が起こったのか分からない。
 コバトは、ピクリとも動かなかった。


「…………!!」
 本来であれば、その光景に俺は〝恐怖〟を覚えるのだろう。
 だが、俺は何故かそれを感じることはなかった。
 理解できないからじゃない。過程はどうあれ、この惨状を俺はしっかりと理解していた。
 それなのに——俺は一向に、恐怖に戦
おのの
くことはなかった。

 逆に、身体を熱い感覚が、支配していくのが分かった。
 何故か、頬を涙が伝った。


 その正体は俺にも分からない。
 けど俺は——この後に起こった事をきっと、生涯忘れることはないだろう——。




「うわあああああああああああああああああああああああ!!!!」


 俺は、狂ったように叫んだ。

 何故叫んだのかは分からない。
 目の前の惨劇に、怒りを感じていたわけでも無い。
 けど、身体が無意識に叫んだのだ。



 ——その一瞬。

 ドクンッッ!!

 血が沸騰するかのように熱くなるのを感じた後。



 俺の右手には——
 いつか見た、一本の刀が握られていた。














 ——これが。
 〝資格者〟として生まれ、今までその運命を確たるものとし得なかった彼が、初めてその力の片鱗を見せた瞬間であった。

 夏目飛鳥。
 彼はこの時を境に、その呪われた運命の渦に巻き込まれていくことになる——。





To Be Continued……