1日目(その5)軍艦島見学! の巻
【前回からのつづき】
軍艦島にいざ上陸!
って、だいぶここまでひっぱってますね~。
島に上陸すると3班に分かれて順番に見学します。
といっても、見学できるのは
↑この赤いルートだけ。
それ以外はすべて立入禁止です。
少ないっ?!て・・
でも、こればっかりはしょうがないのです…ヽ(;´ω`)ノ
アパートなどの建物は崩落寸前って感じで、
学校付近のグラウンドでも陥没が起きているようです。
各エリアには、ちゃんと島の説明をしてくれるおじさん達がいました。
ワタクシの班は、順序よく第1広場→第2→第3を見学するルートでした。
まずは、第1見学広場。
右に見える橋げたみたいなものは、精炭を運んだベルトコンベアーの支柱です。
そして、ちょうど島の一番高いところにある建物。
あれは、貯水槽だったそうです。
当時、この島は「真水」がすごく貴重で、
最初は海水を蒸留したり、船で運んでいたそうですが、
人口が増えるにつれ水が足りなくなり、
隣の三和町から6500メートルの海底送水管を通して
そこから送水していたそうです。
貯水槽から送水管が伸びています。
そして貯水槽のとなりには、灯台も見えます。
これは軍艦島が閉山になってから取り付けれたものだそうです。
それ以前は、24時間島のどこかしらに灯りがともっていたので、
灯台を建てる必要がなかったようです。
眠らない街・東京ならぬ、「眠らない島・軍艦島」
この建物・・すごく危うい・・
エッシャーの絵みたいだな。
主力坑だった第二竪坑の坑口桟橋跡。
この階段から下の坑道へもぐっていったみたいです。
第2見学広場にやって来ました。
レンガ造りの建物は、総合事務所。
もう壁しか残っていません。
ここの中には、公衆浴場があったそうです。
炭坑から出てきた真っ黒な炭鉱マンが
3つの種類のお風呂があって、
まず最初は、海水を湧かした浴槽に“服のまま”入浴。
↓
服を脱いで、2番目のお風呂に。(これも海水)
↓
そして3番目のお湯だけ、真水のお風呂だったそうで、
最後にここの上がり湯に入って出る
というシステムだったそうです。
1番目のお風呂は、相当真っ黒だったんだろうな・・
次は第3見学広場に移動。
島はこのように、高い防波堤で囲われています。
台風の時は、高波の被害もあったらしい。
ですが、台風に慣れっこの島の人々は、
野外で大波見物をすることもあったとか・・
第3見学広場の途中にあったのが、25メートルプールの跡。
よく見ると、白い線が引いてあるのが見てとれます。
小中学校のプールに使われていたようです。
にしても、そこかしこガレキです。
第3見学広場の前に建ってるのは、
炭鉱で使う工具を、修理したり改造したりする工場だったようです。
そしてその奥に建っているのは、
この島で一番古い1916(大正5)年に建てられたアパート。
日本最古の鉄筋コンクリート造の7階建ての高層アパート
だそうです。(このツアーの目玉です)
ここは鉱員さんの社宅で、1階には郵便局や理髪店が入っていたそうです。
その当時最新鋭の高層アパートが、
都会の東京とかではなく、こんな遠くの長崎の軍艦島にあったとは・・
驚きですね。
ほんと、天空の城ラピュタに来たみたい。
当時、この島は時代の最先端を行っていたわけですね。
さらにはこの島、
鉱員さんの家賃は、炭鉱を持っている会社負担で
家賃が10円だったんだって。
10円?!∑(゚Д゚)
なんつー、太っ腹な会社だ~!
そして、普通のサラリーマンが月2万円ぐらいの給料の時代に、
ここの炭鉱マンは20万円ぐらいもらっていたとか!!
∑(゚Д゚)
なので、その当時の高度成長期の“三種の神器”は
ほぼ100%の普及率で、どの家庭も揃っていたそうな!
などなど・・この島に暮らしていた人は、
かなり裕福な暮らしぶりだったことを
案内員の方は、いろいろと説明してくれました。
島を離れた人たちは、口々に
「あの頃は良かったな~」と当時の暮らしを偲ぶそうです。
陸の孤島で、せっせと炭鉱堀り・・
つらく厳しい生活をしていたんだろうな~とてっきり思っていたんですが、
意外や意外、全然間逆だったんですね~。
これには驚きました。(@_@)
さらにはこの島には、
パチンコ屋、映画館、雀荘、スナック、あと遊郭(!)もあったそうです。
へ~。
そして、この島には警察もあったそうですが、
ほとんど事件がおきなかった、ということも話してくれました。
「争いごとがなく、島の人々は全体が“家族”のように、暮らしていた」
んだと・・。
今はコンクリートの廃墟島ですが、
昔は温かみのあるいい島だったのかな~
そうして島を、後にしました。
つづく