ブログが全く追いついてないが、先日10日に千葉県で、千葉県が主催のセミナーに講師として参加してきた。
セミナーの講師を務めること自体が私には初めてだったので、最初は不安もあったが、アッラーに完全に身を任せると、そんな不安は自然と消えていく。アッラーの望まれる展開となり、メッセージが伝わり、結果がでるのだから、私の役割はその場でしゃべるだけ。

とはいうものの、終ってみてから自分で言いたかった事の30%くらいは常に欠けていた気がして、今後の改善に務めようと思った。

今回の失点は下記:
* ハラール化は難しいと、聞き手が捉えてしまったこと。
* 私自身が日本人に話している、という事に十分注意を払えていなかった事。

一つ目は、何人かが会場内でも口にしていたし、新聞のインタビューでものっていた。これは完全に私の失点である。確かに難しい、だけどそれをどれだけ簡単に筋道を立ててあげられるかが私達の役割である。ダメなものはすでに決まっている、ではそれを同回避、代替えして、ハラール性を確保できるかを提案するべきなのである。協会の理事長という立場で、自分個人が遂行しているハラール性の追求のレベルで物をゆうわけにはいかない。あくまでハラール認証を日の丸を背負って発行している協会の立場でしか物が言えないということは、最高レベルのハラール性の確保になる。しかし、今回の話のなかには、別のパネラーらは、個人のハラール性の確保の方法や客人のもてなし方法を紹介したりするコーナーもあった。聞き手の方々には、マックスとミニマムを聞く機会になったとは思うが、その間のダメなものはダメ、という揺るぎない部分も一緒に理解して頂く必要があった。恐らくこれは伝わっていた気がする。

二つ目は、私はこのセミナー講師を受けた時に、今起こっているこのハラール産業の浸透において、一番欠けているのは、非ムスリムがムスリムを理解する事、ムスリムが非ムスリムを理解する事である。また、ムスリムのためのサービスを考案しようというのに、ムスリムがその場に不在では不可解は不可解のままなのである。なので、ムスリム目線という重要な要素は欠けていてはならない。相手を理解せずして、良いサービスは提供できない。という事を念頭にこのセミナーの内容を作成した。なので、ムスリムの性質から始まり、イスラムとは、ハラールとは、云々をお話した。でも、私が一つ忘れていた大きな事がある。それは、私自身が、日本人を理解していなかった事。

あんたも日本人やのに何ゆうてんの。

つっこみがきそうだが、私は今36歳。(もうすでに新聞でもこの数字がでてきているので、開き直るわ。)16歳で親元を離れ、日本を離れている。それから数年間日本に戻り生活したものの、今までの人生の約3分の2は海外で過ごしている事になる。だから、日本語も何かおかしいし(こないだ、ある人に私の日本語はフランス語なまりだとういわれた。。。それも、思い込み?かと思ったが、おかしいのには変わりないので否定はしない。)、日本人とコミュニケーションできないし、ボキャブラリーも少ないし、見た目も行動も名前も日本人ぽくないし、国籍不明と言われても全く否定する気になれない。日本人かどうか、以前の問題も少なくないが、自分ではもの凄く日本人だと思っていたけど今実際に日本人と一緒にいてそうでない事をひしひしと感じている。
でも、逆に愛国心なんかは一般の日本人以上にあるかもしれない。それは海外で散々な目に会いながらも、相当な苦労もあった時もあったが日本人としての自分のアイデンティティーはいつも強く持っていたつもりだ。海外でワールドカップやオリンピックを見ているとそれが更に強くなったりする。
それてしまったが、とにかく日本人を理解するということ。
昔、子供の頃、よく母や父が自分に言って聞かせた事、近所や親戚と仲良くする事、日本人には当たり前の事であるが、それがイスラムでは教義の中にある。日本人とイスラムはとても近い、ということを知らなくてはならない。また、日本には欧米にはない道理、秩序、人が文化的にも社会的にも存在する。これを知らずして、日本人にイスラムの話をする事はできない。しても、まったく中に入ってこない。余計に不可解にしてしまうだけで、逆効果である。いつまでたっても、遠いアラビアの国の出来事。。。くらいしか捉える事ができない。

そうでは、ない。イスラムは人のすぐ側である。鼻よりも近い。息が届くほど近い。どこをみてもイスラムはそこら中に存在する。

同じ言葉で、同じ心で、同じ人種である者がそれを伝えられない術が無いはずはない。