華麗なる. . .
「華麗なる. . . 」と来たら、やはり『華麗なるギャツビー』ですよねぇ。(あのテレビドラマでも化粧品でもありません)
. . . と言われても、知らない人は、なんのこっちゃという感じでしょうけれど、英文科出身の人であれば(とかなり限定してますが)一度は聞いたことがあるはずです。それがこちら。
『華麗なるギャツビー』 (The Great Gatsby, 1974)
© Paramount Home Entertainment Japan
原作は、アメリカの作家、F. スコット・フィッツジェラルド (Scott Fitzgerald)の『偉大なギャツビー』 (The Great Gatsby, 1925)。英文科の授業でも、おそらく読まれることの多い小説のひとつと言えます。
その主人公であるジェイ・ギャツビーを演じるのは、上のカバーにも写っているロバート・レッドフォード (Robert Redford)。このキャストが絶妙なんですそして、ギャツビーの元恋人で、長年想いを寄せる女性がデイジー・ブキャナン。すでにデイジーはトムという夫と子供もおり、(一応平穏に見える)結婚生活を送っています。デイジーを演じるのは、こちらも絶妙な配役と言えますが、カバーに写っている、ミア・ファロウ (Mia Farrow)。
舞台はアメリカ。時代は、いわゆる「ジャズ・エイジ」と呼ばれた1920年代。アメリカがある意味、もっとも繁栄を極めた時代とも言えます。
かつての恋人デイジーを忘れられないギャツビーは、ニューヨーク郊外の高級住宅地、ロングアイランドのウェストエッグという場所に邸宅を構えます。そのウェストエッグという場所は、デイジーが住むイーストエッグの対岸に位置しており、ギャツビーは毎晩パーティを開き、そのパーティでデイジーといつか再会するのを待つことになるのですが. . . 。
と、まあ、最初のあらすじはこんな感じで、歪んだ愛情を抱えたギャツビーが、どのようにデイジーと再会し、そして再び愛を育めるのかどうか、というのが物語の中でもひとつのポイントにもなっています。映画の冒頭でも、ギャツビー邸の様子が映し出され、自らのイニシャルを据えたさまざまな小道具と共に置かれているたくさんのデイジーの写真。こんなところから、ギャツビーの思いがどれだけ勝手に「肥大化」しているかがよく伝わってくるでしょう。
そして、この映画の華と言えば、それはやはり衣装。1974年のアカデミー賞でも、衣装デザイン賞を受賞しているほど。映画を見てもかなり力が入っていることが伝わってきます。特にパーティの場面は、まあ華やかで、特に当時流行の最先端にいた「フラッパー」と呼ばれる女性たちの独特のドレスには注目です。あっ、もちろん、男性の着るスーツにも独特の時代感が存在しています。これも有名な話ですが、男性キャストの衣装はすべてあのラルフ・ローレン (Ralph Lauren)が手がけています。この当時の独特の感じは、ラルフ・ローレンの中でも、現在の最高級のラインとされる、「パープル・レイベル (Purple Label)」にも受け継がれているような気もします。まあ、こんなところもちょっとした見どころかと。
実はこの映画にもちゃんと「仕掛け」があり、それによって、ギャツビーとデイジー、そして彼らを取り巻く、いわゆる「金持ちの人間たち」の歪んだ人間性が次第に浮き彫りになっていきます。その「仕掛け」というのは、小説では「語り手」として設定されているニック・キャラウェイという人物。
ニックはギャツビーの友人でもあるのですが、パーティに招待され、その後、ニックのいとこでもあるデイジーを紹介するようギャツビーに頼まれることになります。小説では語り手として、その年の夏に起こったギャツビーを巡る顛末を語るという役割を担っているのですが、実は映画でもこの「語り手」としての役割を果たしています。もちろん、スクリーンにもニックは映っているのですが、ニックが彼ら金持ちの人間たちを「凝視」し、「観察」するかのようなショットが、ふんだんに盛り込まれています。ニックを演じているのは、サム・ウォーターストンという俳優。決して表情を変えることなく、いわば目撃者としての役割を果たしていきます。ニックはギャツビーとデイジーの関係だけでなく、結果的にデイジーの夫であるトムと、愛人マートルの逢瀬も目撃することに. . . 。
個人的に印象的だと思う場面は、ギャツビーがデイジーを招待し、自宅のクローゼットから、ロンドンの超有名服飾店、ターンブル&アッサー (Turnbull & Asser)のシャツを、まるで花を敷き詰めるかのように、床に次々に投げ出す場面。このシャツの綺麗さにデイジーは涙するのですが、この二人の関係を象徴するかのようなシーンは、小説でもさまざまな意味合いがあるとされる場面。映画を見る際にはどうぞご注目を。(ちなみにターンブル&アッサーは、ショーン・コネリーがボンド役で着たシャツとしても、さらにかのチャールズ皇太子も顧客という、歴史あるシャツメーカーで、服好きにはとても有名です、ハイ)
ということで、色々と書いてきましたが、もっとシンプルにギャツビーとデイジーの恋の話として観ても、なかなか見応えのある映画。もちろん、端正な容姿ながら、どこか影を感じさせる、レッドフォード演じるギャツビーと、いまにも崩壊しそうなほどに繊細な、ファロウ演じるデイジーの姿は、悲劇的ながら、それだけでは終わらない何かを感じさせてもくれます。
さらに言えば、この「ギャツビー」の物語は、実は原作者であり、繁栄の1920年代を駆け抜けた作家フィッツジェラルドとその妻ゼルダとの関係になぞらえられることもよくあるわけで、まあ、色々と広げれば、それだけ広がりのある作品です。時間は約140分とかなり長いですが、見応えもあり、決して長くは感じません。ちなみにこの映画の脚本は、あのフランシス・コッポラが手がけています。
まだまだ梅雨の続くこの季節、時間があるときに、ぜひ一度じっくりご覧いただければと思います。
. . . と言われても、知らない人は、なんのこっちゃという感じでしょうけれど、英文科出身の人であれば(とかなり限定してますが)一度は聞いたことがあるはずです。それがこちら。
『華麗なるギャツビー』 (The Great Gatsby, 1974)
© Paramount Home Entertainment Japan
原作は、アメリカの作家、F. スコット・フィッツジェラルド (Scott Fitzgerald)の『偉大なギャツビー』 (The Great Gatsby, 1925)。英文科の授業でも、おそらく読まれることの多い小説のひとつと言えます。
その主人公であるジェイ・ギャツビーを演じるのは、上のカバーにも写っているロバート・レッドフォード (Robert Redford)。このキャストが絶妙なんですそして、ギャツビーの元恋人で、長年想いを寄せる女性がデイジー・ブキャナン。すでにデイジーはトムという夫と子供もおり、(一応平穏に見える)結婚生活を送っています。デイジーを演じるのは、こちらも絶妙な配役と言えますが、カバーに写っている、ミア・ファロウ (Mia Farrow)。
舞台はアメリカ。時代は、いわゆる「ジャズ・エイジ」と呼ばれた1920年代。アメリカがある意味、もっとも繁栄を極めた時代とも言えます。
かつての恋人デイジーを忘れられないギャツビーは、ニューヨーク郊外の高級住宅地、ロングアイランドのウェストエッグという場所に邸宅を構えます。そのウェストエッグという場所は、デイジーが住むイーストエッグの対岸に位置しており、ギャツビーは毎晩パーティを開き、そのパーティでデイジーといつか再会するのを待つことになるのですが. . . 。
と、まあ、最初のあらすじはこんな感じで、歪んだ愛情を抱えたギャツビーが、どのようにデイジーと再会し、そして再び愛を育めるのかどうか、というのが物語の中でもひとつのポイントにもなっています。映画の冒頭でも、ギャツビー邸の様子が映し出され、自らのイニシャルを据えたさまざまな小道具と共に置かれているたくさんのデイジーの写真。こんなところから、ギャツビーの思いがどれだけ勝手に「肥大化」しているかがよく伝わってくるでしょう。
そして、この映画の華と言えば、それはやはり衣装。1974年のアカデミー賞でも、衣装デザイン賞を受賞しているほど。映画を見てもかなり力が入っていることが伝わってきます。特にパーティの場面は、まあ華やかで、特に当時流行の最先端にいた「フラッパー」と呼ばれる女性たちの独特のドレスには注目です。あっ、もちろん、男性の着るスーツにも独特の時代感が存在しています。これも有名な話ですが、男性キャストの衣装はすべてあのラルフ・ローレン (Ralph Lauren)が手がけています。この当時の独特の感じは、ラルフ・ローレンの中でも、現在の最高級のラインとされる、「パープル・レイベル (Purple Label)」にも受け継がれているような気もします。まあ、こんなところもちょっとした見どころかと。
実はこの映画にもちゃんと「仕掛け」があり、それによって、ギャツビーとデイジー、そして彼らを取り巻く、いわゆる「金持ちの人間たち」の歪んだ人間性が次第に浮き彫りになっていきます。その「仕掛け」というのは、小説では「語り手」として設定されているニック・キャラウェイという人物。
ニックはギャツビーの友人でもあるのですが、パーティに招待され、その後、ニックのいとこでもあるデイジーを紹介するようギャツビーに頼まれることになります。小説では語り手として、その年の夏に起こったギャツビーを巡る顛末を語るという役割を担っているのですが、実は映画でもこの「語り手」としての役割を果たしています。もちろん、スクリーンにもニックは映っているのですが、ニックが彼ら金持ちの人間たちを「凝視」し、「観察」するかのようなショットが、ふんだんに盛り込まれています。ニックを演じているのは、サム・ウォーターストンという俳優。決して表情を変えることなく、いわば目撃者としての役割を果たしていきます。ニックはギャツビーとデイジーの関係だけでなく、結果的にデイジーの夫であるトムと、愛人マートルの逢瀬も目撃することに. . . 。
個人的に印象的だと思う場面は、ギャツビーがデイジーを招待し、自宅のクローゼットから、ロンドンの超有名服飾店、ターンブル&アッサー (Turnbull & Asser)のシャツを、まるで花を敷き詰めるかのように、床に次々に投げ出す場面。このシャツの綺麗さにデイジーは涙するのですが、この二人の関係を象徴するかのようなシーンは、小説でもさまざまな意味合いがあるとされる場面。映画を見る際にはどうぞご注目を。(ちなみにターンブル&アッサーは、ショーン・コネリーがボンド役で着たシャツとしても、さらにかのチャールズ皇太子も顧客という、歴史あるシャツメーカーで、服好きにはとても有名です、ハイ)
ということで、色々と書いてきましたが、もっとシンプルにギャツビーとデイジーの恋の話として観ても、なかなか見応えのある映画。もちろん、端正な容姿ながら、どこか影を感じさせる、レッドフォード演じるギャツビーと、いまにも崩壊しそうなほどに繊細な、ファロウ演じるデイジーの姿は、悲劇的ながら、それだけでは終わらない何かを感じさせてもくれます。
さらに言えば、この「ギャツビー」の物語は、実は原作者であり、繁栄の1920年代を駆け抜けた作家フィッツジェラルドとその妻ゼルダとの関係になぞらえられることもよくあるわけで、まあ、色々と広げれば、それだけ広がりのある作品です。時間は約140分とかなり長いですが、見応えもあり、決して長くは感じません。ちなみにこの映画の脚本は、あのフランシス・コッポラが手がけています。
まだまだ梅雨の続くこの季節、時間があるときに、ぜひ一度じっくりご覧いただければと思います。