女の子と分かれて家に帰宅したトモヤは憂鬱だった。さっきまでの妙な恥ずかしさは家に入った瞬間、一気に消失した。家には姉に扮したアイツがいる。できるだけアイツとは関わり合いたくない。トモヤはそろりそろりと足音を立てずに二階へ上がり、【姉ちゃんなんて大嫌い】と書かれた自分の部屋に入ろうとする。
「……」
 と、自分の部屋に入る前に、アイツの部屋の扉が少し開いているのが何故か気になった。
「……」
 今、何をしているのかちょっと覗いてみる。すると、アイツは締め切った部屋の中でパソコンに向かい合って、ネットを見ているようだった。
 トモヤはアイツのネットか漫画を読んでいるかの姿しか見たことがない。走る努力もしていない。なのに、アイツは異常なほど足が速いのだ。追って来られたら絶対に逃げ切れない。それはアイツが化け物である証拠とトモヤは確信している。
「!」
 トモヤはふと、アイツが夢中になっている今なら、アイツを斃すことができるのではないかと思い付いた。アイツは狙ってくれとでも言うように背中をこちらに向けている。しかし、わざわざ少しだけ扉の隙間を開けていたということは、罠の可能性も考えられる。アイツは自分を誘いこんで、食べようと待ち構えているのかもしれない。
「くそぉっ! 化け物め!」
 トモヤは小声で叫んだ。あの余裕が許せない。
 トモヤにはアイツが罠を仕掛けているのか、無防備なのかの判断が付かなかった。
 とりあえず、扉はそのままにして、自分の部屋に帰ることにした。
「どうしたらいい。どうしたらいいんだ」
 トモヤは悩んだ。罠か、チャンスか。
「ここは挑んでみるべきかもしれない。うまくいけば、僕は家族を守ることに成功するんだ。そうしたら、本当のお姉ちゃんも……きっと喜んでくれるに違いない」
 トモヤはアイツを斃す方法を考える。素手では勝てっこない。何か、道具が必要だ。まず最初に思い浮かんだのが銃だった。銃なら、近付かなくてもアイツを斃すことができる。しかし、自分がそんなものを持っているはずがない。
 次に思い浮かんだものは剣だった。剣はいかにも化け物退治をしているようでカッコイイ。しかし、そんなファンタジーチックなものも当然ながら持っているわけはなかった。
「あ」
 トモヤは思い出した。そういえば、台所に包丁がある。包丁で戦うのはちょっとカッコ悪いが、今はあいつを斃すためのアイテムなら、何だってよかった。トモヤはすぐに一階の台所に向かう。その途中、階段は静かに静かに下りた。
 目的の包丁はすぐに見付かった。トモヤは早速、包丁を手に持ってみる。銀色の刃がギラリと光る。これなら化け物相手でも戦えそうな気がした。しかし、包丁を持つのは調理実習を合わせて人生で三回目。クラスの先生は危ないから注意して使うようにとうるさいほど言っていたことをふと思い出した。
 鋭い刃を見ているとイケナイ事をしているみたいで胸がドギマギした。


「大丈夫……僕ならヤれる……」
 トモヤは使命感にも似た気持ちの昂りも感じ、戦いの意思を固めた。
 包丁を持って二階のアイツの部屋の前に行く……その時!
「うわぁっ!」
 トモヤの目の前を、黒光りするアレが通り過ぎた。突然のことで驚いたトモヤはそのショックで思わず持っていた包丁を地面に落してしまった。
「ひ……ひぃぃぃ」
 落ちた包丁は間一髪でトモヤの足の隣の床に刺さった。あともう少しズレていたら、自分の足に刺さってしまうところだった。
 トモヤは怖くなって泣きそうだった。刃物は自分が傷を負う可能性があることを改めて自覚した。リスクは低い方がいい。トモヤは包丁を使うことをやめることにした。
 と、トモヤが包丁を直した瞬間、黒光りするアレが優雅に羽ばたきながらトモヤの目の前に飛んできた。
 ぴと。
「ぎゃあああああぁぁぁぁ!」
 トモヤの前髪に黒光りするアレが乗っている。サブイボが立ちまくる。身の毛のよだつような思いで、体がゾクゾクする。
「どっかいけよ! 来るなぁああああ!」
 トモヤは思いっきり左右に頭を振った。すると、黒光りするアレは床に落ち、カサカサ床を這って逃げていった。
 トモヤの気分はすこぶる悪くなった。
「!」
 ここで思い直す。もしかしたら、黒光りするアレはアイツの使い魔かもしれないと。アイツが自分に刃物を持たせないように、黒光りするアレを放ったのだ。
「くそぉ……くそぉっ! 化け物め……」
 トモヤは自分の無力さに泣いた。トモヤが戦うにはまだアイツは早すぎた。
 他人から見れば似たもの同士だったが、トモヤの異常なまでの妄想癖が姉と共通していることを、彼はまだ自覚していなかった。
 泣いているところに、再びカサカサと刺客が舞い戻って来る。黒光りするアレが目の前をゆっくり通り過ぎて行く。何だか馬鹿にされた気分だった。


「……ロシテヤル……」
 殺意が芽生えた。何か、一線を越えた気がした。
 トモヤは台所にあるはずの蠅叩きを探し、すぐに手に持った。
 アイツは斃せなくても……せめて、気に障る刺客くらいは斃してやる。黒い感情が内に湧きあがって来る。トモヤはもうそれしか考えることができなくなっていた。
「はああああ!」
 黒光りするアレを見付けた瞬間、トモヤは全力で走って叩いた!
 しかし、黒光りするアレは間一髪、トモヤの攻撃から逃れていた。
「ちっ」
 トモヤはすぐに黒光りするアレが逃げた方に向き直る。
「はぁっ!!!」
 しかし、またもや黒光りするアレはトモヤの攻撃を避けた。意外に手強い相手だ。
 トモヤは夢中になって、黒光りするアレを叩き続けた。
「ハァ……ハァ……ハハッ、ヤッた……ヤッたぞ……できる。今の僕なら、アイツを斃せる……」
 トモヤは数十分、黒光りするアレを叩き続けた結果、ようやく仕留めることに成功した。目的をやり遂げてすがすがしい気分になる。今の自分ならアイツを斃せるような気がした。よく考えてみたら何もアイツを切り裂いたりする必要はない。気絶でもさせれば、後は警察を呼んで変身後の正体を見せればいい。それでこの家から去って行ってくれるはず。
 アイツを気絶させる程度なら、これで思いっきり叩けばできる。トモヤはそう確信した。刺客を斃し、気分が昂っている今なら、何でもすることができそうだった。
「見ていろ化け物……」
 トモヤは蠅叩きを持って、ゆっくりと階段を上って行った。