涼太と僕と彼女と車 | henのブログ

涼太と僕と彼女と車

入社して僕が配属になったのは、生まれ育った東京とは縁もゆかりもない水戸という地方都市だった。1Kの新築マンションを与えられ、会社のある中心部へはバスで10分程かかるようだった。3月の末に引っ越しを済ませ、それまでの実家暮らしから初めての一人暮らしを開始した。洗濯機や冷蔵庫や布団を揃え、ようやく暮らせるようになったのは、引っ越し2日目からだった。
 マンションの1階は駐車場になっていて、戸数の分だけの駐車スペースがあるようだった。それは取りも直さず、この水戸という土地が車なしでは暮らしていけないことを意味していた。
 あっという間に4月が来て、僕は新社会人としてのスタートを切った。そして出会ったのが、涼太だった。数人の水戸配属者の中で、小柄な涼太は一際幼げな印象を残していた。黒く少し長い髪はつややかに光り、白い肌と見事なコントラストを描いていた。
かわいらしい子だな。というのが、僕の涼太に対する第一印象だった。
 涼太は、会社から与えられたマンションの隣の部屋に住むらしかった。
 新人研修は涼太と僕がペアで各部署を回ることになった。涼太は僕のことを「ヒロちゃん」と呼んだ。おとなしい子かな、と思っていた僕の印象は研修を通じて見事に裏切られた。発表の時の涼太は、はきはきと話し、そのコケティッシュな顔かたちや、その小さな体は、まるで光で包まれているような神々しさがあった。
 そうして発表を終えて、業務の座学に移ると涼太は途端にこくりこくりと居眠りを始めてしまい、その無邪気な寝顔に、僕はどこか中性的なものを感じずにはいられなかった。
 部屋が隣であったため、涼太は僕の部屋に頻繁に出入りしていた。他人のプライベート空間にすんなりと溶け込んでしまう何かを涼太は持っていて、眠ってしまった涼太に毛布をかけ、その寝顔を見ていると、僕はまるで、女の子を部屋に入れたかのような錯覚に陥った。実際は涼太は男の子で、女の子をこうやって部屋に入れたことなど、僕には未だかつてなかったのだが。
 そうして僕の部屋で朝を迎えると涼太はもぞもぞと起きだし、むにゃむにゃと、
「ヒロちゃんごめんねごめんね」
と言って恥ずかしそうに自分の部屋へ帰り、シャワーを浴びると今度はすっかり元気な涼太になって、
「ヒロちゃんおはよう!早くしないと遅れるよ!」
といって僕の部屋のインターホンを鳴らすのだった。
 涼太は研修の先々で、女子の先輩や、もう定年間近のおじいさん達に非常にかわいがられた。僕は顔には自信があるが、なぜか生まれてこの方、女の子と彼氏彼女の関係になったことがない。原因はそれまでわからなかった。しかし、涼太を見ていると、厭味のない無邪気さと、おそらくその育ちから来る素直さと明るさが周囲の人々を照らすように惹きつけていくのだなとわかった。
 そうして3か月の研修期間が過ぎ、僕と涼太は別々の部署に配属になった。しかし、部屋は隣同士なので、涼太は相変わらず僕の部屋に出入りし、僕の部屋で朝を迎えていた。
 金曜の夜からいつものように僕の部屋で眠り込み、朝を迎えたある日、涼太が僕に言った。
「ヒロちゃん、車が欲しいね。」
ちょうど初めてのボーナスが出た頃だった。
僕は実家から黒いアスティナという車を持ってきていて、何か買い物があるときには、涼太は助手席に座っていた。涼太は免許は持っていたが、大学時代に車の運転の経験が殆どなく、ペーパードライバーのようになっていた。バスでの不便な移動を強いられていた涼太が自分だけの移動手段を欲しがるのはある意味当然のことだと僕は思った。
「見に行こうか?」
僕は涼太に言った。
「うん!」
涼太はとても嬉しそうな笑顔を見せ、
「すぐに支度するね。」
と僕の部屋を飛び出していった。

 中古車屋はバイパス沿いに沢山在った。僕と涼太は、僕のアスティナに乗り込み、中古車屋を見て回った。店はどこもすいていて、僕らが車を乗りつけると、すぐに店員が歩み寄ってきたが、涼太は、少し見ると、ぷいとしてしまい。
「次行こ。次。」
と僕を急かすのだった。そうして何軒かの中古車屋を回った頃、1台の車の前で、涼太がじっと止まった。ドアを開けて中を見たり、車の回りをぐるぐる回ったりした。車には詳しくないと思っていたのに、ボンネットをあけて中を覗いたりしだした。
店員が歩み寄ってきた。
「こまい車がええんですか?」
広島弁でそう話しかけた店員の言葉を、涼太は理解できないようだった。店員がもう一度言った。
「小さい車をお探しですか?」
「はい。」
涼太は今度はしっかりと答えた。
「はじめてですか?」
「はい。」
「これは左ハンドルやから、初めての人にはちいと難しいかも知れませんなぁ。」
ふむ、とした顔をすると涼太はいきなり言った。
「これ、試乗できますか?」

5分後、僕たちはその車で路上に出ていた。
プジョー205。左ハンドル。マニュアルトランスミッション。1.9L。エンジンは最初こそ、ぐずってかかりにくかったが、走り出すと快調に動き出した。左ハンドルでマニュアルというハンデも、殆ど初めて運転する涼太には特に違和感はないようだった。バイパスの直線に出て、涼太がアクセルを踏んだ。次の瞬間、その小さな車は猛烈な勢いで加速しはじめた。
「きゃはは。これ、たーのしーい。」
涼太ははしゃぎ、どんどん加速していった。助手席の僕は気が気ではなかった。
「これがいい。ヒロちゃん僕、これがいい。」
信号でやっとブレーキを踏みながら涼太は言った。
次に運転を代わって僕が運転席に座った。シートはアスティナより大分柔らかいがへたっているという訳ではなさそうだった。ステアリングに歪みはない。加速も申し分ない。いや、申し分ないどころではない。速い。速かった。危ないくらいに速かった。ブレーキは踏むと若干の違和感がある。
「ブレーキがちょっとへたっているかも知れないね。これはやめておいたほうがいいかも知れないよ。」
涼太にそう告げると、
「じゃ、整備してもらおうよ。」
とあっけらかんとした答えが返ってきた。
 それからの涼太の交渉は見事だった。初めて車を買う人にブレーキに不安のある車を売りつけるのかと店員に迫り、整備を無料にさせ、さらに、保証までつけさせた。ちゃっかり値引きまでさせて、2週間後には納車の手筈を整えた。こういう交渉事をやらせると涼太は抜群のコミュニケーション能力を発揮し、有利な条件を次から次へと引出してゆくのだった。僕はただただ、舌を巻いてそれを見ていた。

 2週間後、マンションの下にその車はやってきた。小さなフレンチブルーのその車は、涼太にこれ程はない位に似合っていた。
 納車が済んで、車の回りを僕がぐるっと回って見ていると、小さな問題を発見した。前のバンパーが割れているのである。試乗した時の小さなカタカタいう音はこれだったかと思った。振り向くと涼太がにやにやしながら立っている。
「気づいちゃった?」
いたずらっぽくそう言うと、涼太は
「じゃん!」
といって、背中に隠していた細長い黄色いものを取り出した。
「アロンアルファ!」
そして涼太は器用な手付きでアロンアルファを塗り、割れたバンパーをあっという間に接着してしまった。
「これでOK。さ、ドライブ行こ。」

 涼太の運転で、買ったばかりのプジョー205でドライブに出た。大子方面へ車を走らせる。
「気づいてたの?」
と僕が聞くと、
「うん。知ってたよ。」
とあっけらかんとした答え。
「バンパーとかね、細かいことはいいの。車は走らないとね。」
と言って、どんどん先行車を追い抜いてゆく。
今まで傷を付けないようにと慎重に慎重に走ってきた僕が急に馬鹿らしくなってしまった。
 茨城の北のほうは、新緑が眩しく、とても美しかった。久慈川のほとりの道をひた走る。
川面に6月の陽光が反射して、きらきらと光る。プジョーのハンドリングの良さが幸いしたのか、運転初心者の涼太の運転でも、怖いことは全くなかった。僕は心底リラックスし、流れる景色を楽しんだ。涼太は自由を手に入れ、とても嬉しそうに車を走らせていた。その横顔を見ていると僕もなんだかとても幸せな気分になった。