こんばんは、Heleneです

 

 

今日から、ブルース・モーエン・メソッドのレベル1~2を連続開催している。

初日、最初のエクササイズのシェアまで終わったところ。

 

明日に向けて、荷物の準備などをしたあとにこれを書いてる。

 

来週は水輪のリトリートなんだが、色々プログラムを考えて、今回のリトリートにはいくつかテーマがあるのかもしれないけど

 

★自分の中のこだわり、執着を手放す

★今ここの自分を意識し、それを受け入れ、無条件に認める

 

が最初にあるのかなって思っている。

 

こだわり、執着は信念、とも言えると思う。

 

自分がこうでなくてはいけないとか、こうであるべきものと感じている物事

自分が信じていたり、大切だったり、重要だと思っているもの

自分が正しいと思っているものだったり……

 

それでおもだしたのだけれど

そして、いつかやってみたいと思っているんだけど

死の体験のワークショップっていうのに参加した時があった

 

ワークショップの中では、不死の病に倒れ、徐々に死が近づいてくる設定なのだが

誘導に従って

自分にとって大切なものを一つ一つ捨てていかなくてはいけないというもの

 

最初はたくさんあった大切なものが

最後にはすべてが無くなってしまう(死によって)

 

っていう経験をするんだが……

 

何度か大切なものの中からいくつかを選んで必ず捨てなくてはいけないのだが

人によって、それが違う

 

親・パートナー・子供・仕事・家・友達・お金・趣味・ペット……

 

最後に残ったもの

そして、それすらも捨てなくてはいけない

 

その時に何を思うのか

自分の人生を振り返り、本当に大切なものは何なのか

もしも、今死んだら何に心残りができてしまうのか

 

普段は思いもしない気持ちに気がつくこともあるし

自分の想いに気付かされるようなワークショップだった

 

 

私が学んだ瞑想の一つも、自分にとっての大切なもの、信じるものを一つ一つ捨ててゆくというものがあった

最後に何が残るのか?

自分が最後まで握りしめるものは何なのか?

 

そんなことを考えることはあまりないから

瞑想をするときにたまにそれをやることがある

 

そうやって削ぎ落としていったとき

自分の中のこだわりが少なくなっていって

何が起ころうと大丈夫

何が失われても、どんな状況になっても、それに合わせて動けばいい

水のように流れる、そんな感じの思考になってゆく

 

形にとらわれない

物質的な尺度にこだわらない

あえて言うならそんな感じ?

 

だから、時々、こだわりが強すぎる人の気持ちが理解できないときもある

なぜ、それにこだわるのか?

自分が信じるのであれば、自分が大切なものであれば

自分がそれを信じるだけで、自分が大切だと感じるだけで

それでいいし

それを誰かに認めて貰う必要も、誰かに評価される必要もない

 

こだわりがあればあるほど生きにくくなるように思っているから

自分がどう思うのかだけに価値を持って

自由に動き、自由に考え、自由に生きるのでいいのだと思うし

すべてがOKというのでいいと思っている

 

その地点にいる限り、いつでも何でも自由に思うがままにできるような気がするのだ

 

でもそこに至るには、自分への信頼が必要なんだろう。

 

リトリートの準備を通じて、準備のために、更に本を読んだりもしているし

過去の自分の経験を振り返ったりもしている

 

ある意味で、誰かのためのリトリートを準備しながら

自分自身のためにも何かをしているのだろう

 

それは、トレーナーとしての仕事をしていても

プラクティショナーの仕事をしていても

自分が何かをする側のようでいて、常に自分も学び、成長する機会を貰っているのかもしれない。

 

トレーナーになったから、プラクティショナーになったから、どこかに到達して、すべてが終わる、もう何もしなくてもいいわけじゃない

 

霊としての成長は永遠に続くのだから。

 

動画で、アセンションや覚醒について話したことがある。

世間一般で言う、覚醒は、私は二十歳の頃にしている。

その経験から言えるのは、覚醒やアセンションは、一度してそこで終わるわけじゃないし

あの状態は、生身の人間の体には耐えられないようなもののように感じた。

 

(今考えると、肉体を持ちながら、ヘルパーやガイドのような状態になったのかもしれない

自分自身を天使だとか、善なるものといい切れる人間を私はあまり信じることができない

なぜなら、その意識になること自体が肉体を持つ人間には不可能だとその時に感じたからだ

感覚、感情を捨てない限り無理だと思う

どのような光であろうと、光があるところには必ず影ができる

そして光が強ければ強いほど影は深くなる

そういうことなのだ)

 

階段を登るようにそれは起こる。

成長したらその次のステージの覚醒やアセンションがある。

自分自身の魂の成長に合わせた覚醒やアセンションがあるのだ。

 

だから、覚醒やアセンションビジネスでそれを目指すと言っているのも、それをしたからそこでそれを看板にして誇るのも意味がない。

そういう認識を持って、誇るならば、それは偽りの覚醒やアセンションに囚われている状態なのだと思っている。

 

 

話はそれちゃったけど、そんなことをつらつら思いながら

リトリートで何をしようか、大枠は決まりながらも、まだあれこれベストなものは何かを模索していたりもする

 

何が出るか?

自分でも余裕があったら一緒にやるだろうけど、楽しみだ。