DADA ~KuRU/kurU RE; SS~ Episode1  #35 | 蒸れないブログ

DADA ~KuRU/kurU RE; SS~ Episode1  #35

 

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 東豊町(とうほうちょう)には予言者がいる。

 

 これ以上無い陳腐な内容の噂、とはいえ火の無いところに煙は立たず、それはある意味事実ではあったのだ。だからといって、その予言者をキリストやモーセのように祭り上げようとする者は誰もいなかったのだけれど。

結局のところ、それは現代において予言と言う物がありふれていて、その価値が俗物的なレベルにまで零落してしまったからだろう。もはや現代人にとって予言は神秘性を感じる物ではないし、それらの物がどういった物であるか無意識に周知されているのだ。

 

例えば、天気予報などがわかりやすい例だ。

 

 一週間後の天気さえ高確率で言い当てる天気予報は、最もありふれた予言の一つだ。太古の人間ならばそれこそ神秘の産物だったであろう。しかし、我々はそれをごく当たり前に受け入れているし、そこに神秘(ふしぎ)を感じない。それは、結局のところ天気予報なるものの正体を知っているからだ。天気予報は神秘でもなんでもない。莫大な統計データ。気象衛星による地球規模でのリアルタイム情報に、全国に点在する気圧、湿度の測定施設。隙間無く測量された地形データ、それら全ての情報と気象学のアルゴリズムから算定される大気の流れ。全てはあるべくしてあり、起こるべきして起こる『科学』の器をはみでないデータに裏打ちされた未来予測(計算結果)。

それは則ち、『常識』であり、ビルから落としたリンゴの行方を誰もが言い当てられる事と道義なのである。そこから考えれば、極論あらゆる予言は知識と情報次第で、いくらでも可能だ。そんな大げさな話をしなくたって、明日を夢見て生きていない人間はいないし、夏場に大雨が降った年に「今年の秋の野菜は高騰するかも」と未来視(そうぞう)しない主婦はいまい。

 もし、そんなありふれたものに神秘に感じる事があるならばそれは、そう感じた人がその仕組みを知らない情報弱者であるが故であろう。卜占の類いはコレをネタにしたパフォーマンスであり、知っている人間が知らない人間を驚かす―なんてありふれた日常に雰囲気を与えておもしろがらせるエンターテイメントなのである、

 ならば、その予言者と呼ばれる人物も一種の実演家(パフォーマー)にちがいない。本人もそれを自認しているし、政府(まわり)もそれを自覚し、だからこそ情報源として信頼している。

 

当然だ。

 

極論、あらゆる予言は知識と情報しだいで可能となる―逆説的に人に出来ない予言が出来ると言う事は、人の知らない情報を持っていると言う事なのだから。

 

―予言者(彼女)は、我々の知らない事実を知っている。

 

だからこそ、この予言者が同時に情報屋と呼ばれる事も、その情報を集める探偵業を行う事もごくごく自然な、そして当たり前の着地点(未来予測)だったに違いない。

 

霧宮探偵事務所

 

と掲げられたその看板は、山の上にある閑静な住宅街にひっそりと掛けられていた。