サクラガサイタ。 | お耳の恋人ハートのジェイの王様の耳はロバの耳

サクラガサイタ。

3・11から3週間が過ぎた。

あいかわらず「不謹慎」や「自粛」という言葉が飛び交っている。

それを逆手にとり、知的なユーモアのつもりで「今日の不謹慎ディナー」と、あえて高級な外食をするたびにツイッターにつぶやく、まるでセンスのない著名ジャーナリストまでいる。
飲食店の経済活動のために外食をすべきという主張は間違ってはいないが、ふだんから外食をせずに、日々、安い生鮮品を買って料理して食べている(たとえば僕のような)人はそのふだん通りの生活をすればいいのに、どうやらお金が余分にある人は主張も少し違うようだ。

そもそも「不謹慎」や「自粛」という言葉を使うこと自体ナンセンスだということがわからないのだ。



ちょっと想像してみて欲しい。

40人全員が学級委員のクラス。
児童全員が児童会長の小学校。
生徒全員が生徒会長の中学や高校。

そんなクラスや学校は正常だろうか?
気持ち悪くないだろうか?
居心地悪くないだろうか?
石を投げれば必ず当たるほど、そこらじゅうに「俄か仕立て」の生徒会長や学級委員たちが声高に自分をアピールする世界は、どこか、ある遠くない時代に似ていて、怖くないだろうか?

僕は、異常だし気持ち悪いし居心地悪いし怖いと思う。

正義感というマッチョイズムから「AERA」の連載を降りた劇作家で演出家で俳優で大学教授の人(ネタに困ると天皇制を持ち出す印象がある)がいるが、彼のその思慮に欠けた発言と行動が逆に巧妙に政治利用されていることには一向に無頓着だったりする。

今、主に首都圏に、無名の一市民から有名人にまではびこっている現象のことだ。
(この現象が、静岡西部・中京以西にまで広がっていることが僕にはよくわからない)

震災以来、その「マッチョイズム(マチスモ)」が妨げているものがたくさんあると僕は思う。



「今、自分に出来ること」と言いながら、実は自分に出来ないことをやったりろやろうとしたり、考えたりしている人がたくさんいる。

最大瞬間風速的に、無意識に自分の潜在能力を越えて、何かが出来るような期待があるかもしれない。
そして、それを達成出来た実感の瞬間があったかもしれない。

だが、そんな日常は、長く続くはずがない。
それを続けようとしても、堤防が決壊するように必ず破綻する。
一瞬、そんな自分に満足しても、その後、ある日ふと、それをしなくなった自分はだめなのではないかと反問するときがくる。
もう忘れたのか? 忘れるのが早くないか? 自分の好きなことだけやっていてよいのか?

だが、もちろん、そんなことは絶対にない。

それを続けることが出来るのは、そして続けるのは、その道の専門家だけで十分なのだ。
最大瞬間風速の力で成し遂げたあとに襲ってくる無力感、無気力感に苛まされる必要は全くない。

なぜ、そんなジレンマに陥るのか。

それは、

阪神大震災以降、大規模な災害や9・11やイラク戦争や昨今の中東アフリカ革命を通して、人は知らず知らずのうちに、世界に蔓延する「マッチョイズム」を学習し、自身の手で無意識に今の自分を教育して来たからだ。

誰から強制されたわけでも、学校や会社で教えられたわけでも、最近は芸能人やタレントやスポーツ選手まで出るようになった、もううんざりのAC(ちなみに交流電力の略も「AC」だが)の鬱陶しいCMの効果でもない。

つまり、それが精神的「マッチョイズム(マチスモ)」という名の自己欺瞞なのだ。
もちろん、ここで言っているマッチョイズムがその額面通りの意義ではなく、メタファーであることは言わずもがなだが、このネット社会では通じないことがあるので、念のために記しておく。

これはただのマッチョイズムではないか?
自分は行き過ぎてはいないか?
無理をしていないか?

いつも、そう自分の心に問いかけたい。
いつも、そう疑問を投げかけたい。
いつも、自分と対話し、本当の自分の声を聞きたい。

この闘いに期限はない(太平洋戦争・沖縄・米軍基地の問題が今も続いているように)。
長い長い闘いになる。

それは、言うまでもなく自分との闘いだ。



この震災を体験し、今を生きる子供たちは「未来」だと言おう。

とくに、3月と言わず、2011年生まれの新しい命たちは未来そのものだ。

彼らは、いつか知ることになるだろう。
そのとき、彼らはそれをどう理解し(あるいはどう振り返り)どう行動するのか。
そのためにも、僕は今をふつうに生き、彼らの時代のために、自分の守るべきものを守ろうと思う。

そのときのために、今、これを書いている。

だから、「ふつうに」と書いた。

政府や東電の無策によって、本来なら起こり得ない、あるいはスムーズに取り除けるはずの不可抗力な(たとえば無計画な計画停電のような自家撞着な)障害や要因、報道による必要以上の安全不安は別として、ふつうの自分でいれば、これまで通りにふつうに世の中が回っていく(はずなのだ)。

ふつうに花見をすればいいと思う。

少なくとも、毎年のようにニュースの特集で報道されるような、井の頭公園や上野公園で深夜まで泥酔して騒ぐ花見は「ふつう」ではないことは、日常だろうと非常時(非日常)だろうと関係はない。

ふつうに、満開の桜の樹の下で、飲みたければ酒を飲み、食べたければご馳走を食べ、話したければ知人や友と語らい、それぞれに楽しめばそれでいいのではないだろうか。

たとえば僕なら、いつ上野のパンダに会えるか、そのことを気にしている。



震災以来、メディアは日々その報道に集中しており、大事なニュースがほとんど埋もれて、人が省みることがない状況であることもよく知るべきだ。

昨年あるいはそれ以前の重大事件(よく思い出してみよう)の裁判や控訴審や判決はもちろん、日本相撲協会の八百長裁定やあれほどもめた東京都青少年健全育成条例改正問題で揺れた3月開催予定だった東京国際アニメフェアなどなど。

そんな中、3月の終わりに、またしても大阪でこんな酷い事件が起こっていたことも。

大きなもののために、ほんとは大きなものであるのに全く見えなくなっているものが少なくないこともまた大きな問題だと記しておきたい。(同じことを、僕が私淑する高齢の哲学者も書いている)



三好達治は書く。

「人は仰いで鳥を見る時その背景の空を見落とさないであろうか」



また時が巡って来て、今、自分が最も必要とする情報を全身で集め、自分の判断で花を咲かせた。

サクラガサイタ。

4月。