今年に入ってから、
何故かやたらと
過去を振り返る機会がある。
主に幼少の頃のこと。
ココロの奥まで入り込んで、
いろんなことを拾い出している。

そんなキッカケがゴロゴロ。

ありすぎるくらい、ある。


だけども起こる物事には
全て意味と理由がある。
たぶん今、過去を振り返って、
“事実(?)”に気づいたことにも
何らかの意味があるはずだ。



「イマジナリーフレンド」
(↑のサイトより抜粋↓)

イマジナリーフレンドという言葉を御存知でしょうか。イマジナリーコンパニオンとも言います。
面倒なのでここではIFと略しています。
欧米で一般的に言われる概念なのですが、言葉通り「想像上の友達や仲間」のことです。
子供が時々何も無い場所にあたかも人がいるように話しかけたり、ぬいぐるみを友達だと言ったりしますね。
それと同じ様なことだと考えてもらうと分かりやすいかと思います。

普通大人になるに連れてこのともだちは消えて行くことになります。
消えなくとも、その存在を気にせずに生きて行く人が大半です。
しかし中には中高生や大人になってもイマジナリーフレンドを持つ人はいます。
途中から出会う人もいれば、子供の頃からずっと一緒に過ごし続けた人もいます。

彼等はもう1人の自分や理想の自分、虐げられた自分、欲求の捌け口にも神様にも恋人にもなります。
芋虫が好きだったら芋虫になるかもしれません。
アニメに出てくるような飛びっきりかっこいいキャラクターになるかもしれません。
ただ妄想と違うのは会話が出来る程に身近で、多くの時間を共有するということ。
見えるだけではありません。声だって聞こえるし、親しいのなら触れ合った感覚まであるかもしれません。
具体的な感覚がなくとも、確かにいると感じることができるのが彼等です。

彼等は心の細部が具現化し、人格と成り果てたものです。
たくさん存在することもあれば、1人だけのこともあります。
彼等は我々自身に強い影響を及ぼすこともします。
上手く統制できなければ、勝手に行動されてしまうかもしれません。
また、途中で自分が彼等と入れ替わってしまうこともあります。
イマジナリーフレンドに関わる現象は精神そのものであって、精神構造の驚くべき能力です。

一風変わったともだちがいて、そのともだちと共にに毎日を暮らしている。
それは現実の物語であり、ともだちは確かに存在している。

そういう世界の中で生き、そういう価値観を持っている人がいます。

IFは大体人間の形をしていると思います。
自分が人間である以上(人間である自信が無くても)一番良く見てきたのは人間なので大体そうなります。
(精神がぶれて構築が下手になるとゾンビみたいになるかも。夢や想像と一緒です。)

人間以外の生物の場合も考え方は同じです。
共通するのは、心に強く残っているものが相手の性格となり、姿となっていくということです。
(物体にIFを構築することも可能です。)

ともだちは精神の状態や自分の価値観によって刻一刻と性格や言葉遣い、姿までを変えていきます。
なので、良く見てみれば必ず自分自身の特徴や自分の好きなものが組み込まれているはずです。
大体において、ともだちには「自分自身の投射」か「理想」が人格化してあることが多いです。

心は足りないものを必然的に補おうとします。
たいていの場合、彼らは彼らと対話するイマジナリーフレンドの持ち主のためにやってくることが多いです。
現実の自分と、どのような差があるのか。どのような共通点があるのか。
それを見つめることは、現状を変えることにも大きく貢献します。


(抜粋おわり)


これ、自分のことだ!

……いや、正確には
「だった」「らしい」だけど。
読んでみたら納得した。
なるほど、そうだったのだな。
(間違ってるかも知れんが)

これに関してはオカルト関係なかったw


リアルな話。
ちっちゃい頃(←軽くいじめられっこ?だった小学校低学年の頃)、いたんだよ。
あたしの話を無条件に聞いてくれる優しい“おともだち”が。
いつの間にか居なくなっちゃったけど。

たとえば“お人形使ってごっこ遊び”とかじゃなくてね。
感覚的には普通にヒトと喋ったりしてるのと同じ(=相手に“自分の意識”は介入していない=自分が意識的に相手を喋らせている訳じゃない)。
そういう認識です。
自分は自分。
相手は相手。
だから純粋に“おともだち”と思ってた。
姿は見えないし(←だけど常に自分の傍にいるのはわかる)、名前もなかったけど(←少なくとも名を呼んだことはない。てか教えてもらえなかったと思う)、それに関しては何の疑問も持ってなかったな~……当時は当たり前みたく一緒にいたから。

あたしの住んでるとこは数秒歩けば隣の市/数分歩けば隣の学区っていうくらいの隅っこで、小学校までは徒歩で30分かかる(←ぶっちゃけ隣接した学区にある小学校のほうが断然近い。時間半分くらい)。普通の子の足でそうなんだから、あたしの歩行速度なんて推して知るべしだ。しかも入学当初はその距離を全部歩けなくて、母親と一緒に少しずつ(それこそ何ヶ月もかけて)歩行距離をのばしていった。
そんな感じだったので、数ヶ月後に合流した地域の通学班には当然のことながら上手に馴染めず(←お姉さん達は事情を知っていて優しくしてくれたけど)、同じ学年しかいない帰り道に至っては、みんなあたしを置いて先に行ってしまうから(←あたしが追いかけられないのをいいことに、思いっきりブッ叩いてったりするし。もう本人達は忘れてるかも知れないが、あたしは一生忘れんよ?許す/許さないとは別問題)、その30分以上の距離を一人で帰るしかなくて……だけどその時も“おともだち”が居てくれたから、全然寂しくなんかなかった。



その“おともだち”は同年代の男の子でね。
いま思うと、あれはいじめっこたちが男子だったから、その免疫?慣れ?を自分に植え付ける為に作り出した“擬似男子”だったのかも。あと、コミュニケーションを図るのが絶望的に下手だったから(←というかヒトとの関わり方が解らなかった。入院とかで保育園も殆ど行けてなかったし…)、それの練習?みたいな。
事実、いじめ?が小2くらいで何故か突然なくなって、そのいじめっこ達とも遊ぶようになったあたりで、“おともだち”とは喋れなくなってしまったような気がする。傍に居るのかどうかすらも判らなくなった。

その後も色々あったけど、新しい“おともだち”は結局あらわれなかったな…
後にも先にも、その子だけ。


そして今に至る、と。



……で、チラッと考えてみた。

あの当時、【“おともだち”が居る=精神的にプラマイゼロ維持】っていう図式が成り立っていたのは間違いない。
決してプラスには行かないあたりが“らしい”というか……あたしの基本って、所謂“ネガ”なのよね。
しかも自分で吃驚するくらい、マイナス方向への振り幅が大きい。
ちょっとしたことで針が振れる。
要するに打たれ弱い/回復遅い(=その間に次のダメが来る→蓄積)ってことなんだろう。
プラスの位置にキモチの針を留めておくなんて至難の業だから「せめてゼロで」とも思うけど、実際にはそんなことすらも困難です(笑顔で周囲を騙すのは巧くなった気がするがw)。

だからその振り幅の調整を意図的に行う/自分と対話するという所謂“箱庭”的な理由もあって、今は文章を綴ったりしてるわけなんだけども。
ある意味、このBLOGもそのひとつなのかも知れない。
読まれても読まれなくても、自分の中身であることにかわりはないわけだし。




これ、ネタじゃないよ?
マジでガチですから。

てか、仕事前に何書いてんだw