。まぁでも結局は行くことにしました。やっぱりビジネスの立ち上げというのはやりがいがありますよね。人が作ったものに入っていくのではなくて,自分が作るわけですから。 :  それほどまでの仕事はそうそうないですし。 河野氏:  はい。そういう意味で面白いかな,と思って行ったんですが,それはもうすごいカルチャーショックでした。道の名前とかもですね……。 :  道の名前? 河野氏:  もともとの通りの名称が体制の関係でロシアの名前に変えられていたのですが,それが革命によって元の名前に戻ったわけです。  地図なんかまったくアテにならないし,街の人とかに聞いても,なんだか50年くらい前の名称でしゃべるわけです。でも,その名称が使われている地図なんかないので,どこを指してるのかさっぱり分からないんですね。  ご存じだと思いますが,アメリカやヨーロッパはすべてストリートネームで住所を書くので,そもそも通りが分からないと,どこに何があるのかさっぱり分からないわけです。想像もつかない。挙げ句,信号は全部切れているし,cabal rmt,西側からかけても電話はまったくかからないし。 :  想像を超えるカオスぶりですね……。 河野氏:  元々が先進国だった国々で,非常に優秀で人間的にも素晴らしい人達なのに,それまでの体制でそんな風に変わってしまったんですね。そういう状況が作る難しさの中で,ビジネスをやっていました,DQ10 RMT。  92年?93年くらいには状況はだいぶ変わって,工場なんかもどんどん作られるようになってきていましたが,90年とか91年あたりはホントにすごかったですね。 :  柵筏摔悉い膜搐恧蓼扦い椁筏郡螭扦工?br> 河野氏:  94年の末頃までかな。だいたい4年ちょっといました。 :  けっこう長い期間いましたね。 河野氏:  そう簡単には物事が進みませんでしたしね。でも途中から人も増えて,いつしかチームになって,ポテンシャルがすごくあることが分かって。結局29か国くらい担当だったんですね。 :  そんなに……? あ,なるほど。ソ連やユーゴの崩壊で,国が一気に増えたんでしたね,あのころは。 河野氏:  そうなんです。ソ連も分かれ,ユーゴスラビアも分かれ,それぞれが全部国になったわけです。すごい数ですよね。 ソニーマーケティングとの兼務ーーやるんだったら両方やったほうが価値がありそうだと思って :  その後,日本に戻ってからは? 河野氏:  柧─藥ⅳ盲皮疲筏肖椁掀胀à耸耸陇颏筏皮い蓼筏俊K饯显┈F場系だったので,柵筏诵肖挨锨锶~原の営業をやっていました
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