スタジオジブリの「風立ちぬ」を考察してみる。
先日ある同世代の若き哲学者と風立ちぬについて、考察と議論をして深めました。これは非常に有意義な時間で、その内容や考察を少し書いてみたいと思います。
「風立ちぬ」について
まず宮崎氏が作り手として二郎という人物に何を仮託したのかを考える、鍵は無論、冒頭で諳んじられる“風立ちぬ、いざ生きめやも”である。風とは、宮崎氏自身の原体験としては原発事故時の風らしく、映画中では戦争を指す。
余談であるが、この「風立ちぬ、いざ生めやも」とは「風が立っている、さあ生きよう」と誤解されている方も多いが、本当の意味は「風が立っている、さあ生きようか、いや死のう」という意味だ。
堀越二郎自身は戦争を肯定も否定もしない人間として描かれている。 戦争行為の渦中に在る、剰えそれに荷担する振舞いを彼がした、ということの善悪の判断は殆ど宙吊りになっている。
監督が恐らく意図的に、直接的に作品全体の表現とし戦争を感じさせる描写を避けていることもその一因だろう。
堀越二郎は見た目とは異なり、自身の価値を追求する為なら酷薄さを示すことも辞さない人物として描かれている。
彼は自身の
「美しい飛行機をつくりたい」
という欲求にのみ従い、そのためには世を蝕む戦争に加担していく非情なエゴイストだ。しかしまた、全く“非情なエゴイスト”でない人間がこの世にどれほど居るだろうか、考えてほしい。
堀越二郎の悲願である美しい飛行機造りは、結果として時代の条件である戦争に直面する、いやむしろ直面したというよりか彼自身が最も重要とした「美しい飛行機を作りたい」は戦争という飛行機を必要とするものがあったからこそ、当時作れたのかもしれない。
とすれば彼が民を蝕む戦争に加担することは彼のマインドとしては当然であり、ユンカース社がナチスに反抗したことも大したことではなかったのかもしれない。
映画のラストでも、明瞭と答えを出していない。戦争“責任”というが、果して時代の流れに責任を取れる者が本当に居るのか。個人の宿した価値の追求なら何をやっても好いのか。答えは非常に難しい。
美を追求するという一個人の生の在り方が、戦争という国家の営みによって生をうけ育まれたと見えないこともないわけです。
美とは何処までも個人のものだが、善とは場合にもよるが基本的には社会との或る関係性、詰まり集団的なものだ。堀越二郎に共感し正当化している視聴者は歴史や社会とは無関係に共感しているのだろう。そしておそらく正当化ということは恐らく念頭に無いのでは無いだろうか、それはこの世に「非情なエゴイスト」でない人間はいるのか?という疑問が解決してくれる。
健全な生活人の判断か、政治感覚の欠如か、表現を白か黒かで受信する感性か、私にはわからない。
堀越二郎が最も大切にした「美しい飛行機をつくりたい」、これは本当に重要だ、忘れがちだが、これは映画内では問いへの答えである。
その問いは二郎の師、カプローニの
「君はピラミッドのある世界とない世界どっちがいい?」
という問い。これは考えるべき問答である。
ピラミッドは多くの奴隷の労働によって造り上げられ、王の権力の象徴であり、現代の価値観から云えば当然それは悪なるものだが、あれが比類なき人類の美的創造物であることも疑いない。ならば、戦闘を目的として造られる美しい飛行機とは?
権力の象徴のピラミッドをカプローニは美しくこの世にピラミッドがないことは考えられないと言い、二郎はつまりそのようなピラミッドと同じような象徴である飛行機を「美しければいい」「作りたい」と言います。私はカプローニはメフィストフェレスだと感じた、全体もファウストのようである。
みなさんが風立ちぬを見直し考えるキッカケになることを期待して。
Revi × Ryosuke
難しい話にお付き合いくださり、ありがとうございました。biz!