光明電鉄が営業運転開始直前の1928年10月現在98万円の株式未払金があり建設費84万円、借入金・未払手形・未払金が総額56万円に達し1928年11月末の在籍株主は1,667名で創立総会当時から554名も減少し、更に減る動きを見せています。


{C3E19221-14E2-4461-A458-FF0C81D241D4}

遠州岩田駅に停車中のデハニ13
遠州岩田駅は光明電鉄線のほぼ中古にあたり、列車交換が行われた。交換施設のほか側線もあり沿線随一の大きな駅であった。


{6E8F130F-7400-4F01-B447-6D9DC757B727}

近年まで残っていた遠州岩田駅ホーム
写真左端に見えるのが当時のコンクリート造りの遠州岩田駅ホームの跡。よく見ると鉄筋が見られずコンクリートを流し込んだだけの”手抜き工事”である。当時は建築基準も高度ではなかったので違法ではないが少しでも工費を安くする跡とも伺える。



田中寿三郎は良い言い方をすれば豪放な手法を好んだが、専らの噂ではやりっ放しで”政治ゴロ”と揶揄されることもありました。1929年1月31日の第7回株主総会では江村・古田・大箸の歴代社長が社長・役員を辞任、専務の中島と創業者の田中寿三郎も専務を辞任します。以降、田中は東京に隠居し彼の地で生涯を終えたといいます。

代わりに光明電鉄の役員に北越銀行系の資本家4名を迎え入れます。社長は設立発起人のひとりで見付町で焼酎醸造会社を営む匂坂勝蔵が就任します。通常なら鉄道家や大株主が警告を発しストッパーを務めますが零細株主ばかりの光明電鉄では誰も暴走を止められませんでした。
1929年12月1日、田川ー神田公園前(現在の天竜浜名湖鉄道上野部駅)間3.1kmが開通します。

{B8BE834D-1495-4D50-B8AD-2BC021DDB7AA}

神田公園前駅近くにある天竜浜名湖鉄道上野部駅


この延伸により豊岡梅園や獅子ケ鼻公園などの観光資源にも活路を見出せるとして期待したものの赤字は増大し匂坂社長は個人の資産を食い潰されかねないと社長を辞任、1930年5月に第19代静岡県知事の白男川譲介が五代目社長に就任しますが経営環境が劣悪で北越資本と地元資本の内部紛争に翻弄されて僅か2ヶ月で辞任しました。

その後の社長は空席となり二俣町の医師:松本芳太郎が筆頭重役として経営を担っていきました。この頃には創立時からの生え抜き役員は松本含めて僅か数名でした。そんな中で1930年12月20日には二俣町まで開通し、更に船明までの開通を急ぎました。

{F99BD887-43DD-402C-88F6-E984F251AF77}

念願の二俣町まで開通した光明電鉄

{C5968855-F3C9-4AF5-91BF-CFD1EB53F529}

二俣町駅があった旧二俣高校前


しかし空中分解しかねない状況に株主から国へ強制管理下に置かれる事が決定、唯一の望みの綱である船明開通も鉄道省(当時)からの補助金交付も使用できず株式払込金がわずかな望みとなる有様でした。
しかし株主から『同志株主へ・警告書』なる文章が発行されます。内容は光明電鉄の設立から今日の混乱に至るまでの経緯を述べ文中には『悪魔ノ跳トウト会社ノ瀕死状態』という藪沙汰ではない同電鉄の悲鳴とも取れる状況が綴られています。
1931年9月現在では株主数1,507名、株主払込は8回を数えこの月の払込金は1株3円としたものの長引く昭和恐慌の影響と会社への不信感が強まったことから16,424株(49,272円)の入金に留まり政府からの補助金(29,366円)を加えても当期欠損額107,723円、繰越損失201,186円とまさに火の車でした。

1933年1月に債権者である貴族院議員:高鳥順作(北越急行系)の申し立てにより破産宣告を受けます。会社は整理案を裁判所に提出したため同年9月破産申し立ては棄却されましたが苦しい経営には変わりありませんでした。バス事業参入や神田や光明山の遊園地事業などが画策されましたが肝心な資金が無く(出資者も毛頭無く)車内に風鈴やヘチマを飾り立てた納涼電車を走らせるのが精一杯でした。

苦しい経営状態でも間引き運転はせず1934年7月13日改正後も新中泉ー二俣町間14往復、新中泉ー遠州見付間7往復の運行は維持しました。
またこの頃、並走する遠州秋葉自動車にたいこうすべく新中泉ー二俣町間の運賃を一気に半額(1円20銭→60銭)に値下げしバスも対抗して値下げして鉄道省からダンピングに対する警告が発せられました。これには『株主に限る』と印刷し合法性を主張しました。当然利益は半減となりましたが利用者は増えず1935年11月20日に東京電灯からの送電が停止、電気料金滞納によるものでした。
焦った光明電鉄は保線用のガソリンカーで電車を引っ張れと従業員に指示したといいます(その後年末年始は送電が再開される)。華やかな計画に反して実に悲しい最期でした。

光明電鉄は1936年1月16日、鉄道抵当法により強制競売に掛けられ先述の高鳥順作により約30万円で落札されて間も無く1月20日を最後に送電を止められました。

官報によると1936年5月29日に二俣町ー田川間、同年7月20日に田川ー新中泉間も廃止となりました。鉄道としては全くと言ってよい程価値の無い光明電鉄を落札した高鳥は地元新潟県で頭取を務めていた第百三十九銀行に差し押さえられています。貴族院議員であり国策のわかる立場にいたので廃止を第1期工事の終点とはいえ田川で区切って行ったのはどうも後の国鉄二俣線の土地買収を目論んで行ったとも読み取れます。それ以外の廃止空間がほとんど残っていないのは資産価値としては皆無であり後の農地改革もあり新中泉ー田川間の廃線跡は現在ほとんど残っていないのです。


{E12659F9-8D39-4677-9A7B-4218400CC180}


二之宮ー遠州見付間にあった記念碑
近年、磐田市の文化財にこのような石碑が造られ、光明電鉄も磐田市水道局の資材置場にあった。アピタ磐田店が造られ資材置場も駐車場となった時にこの石碑も姿を消してしまった。まるで短命だった光明電鉄を擬う(なぞらう)ようである。