「自由」
初瀬川はこの言葉を聞くと、うれしさ半分、気が引き締まります。なぜなら、自由には責任が伴うと思って意味を捉えているからです。
自由という言葉をどのように捉えているかで自由に対する考え方は変わります。
もともと日本人には自由という言葉は意識しづらいものだったのだと思います。
なぜならそういう考えが希薄だったからだと思います。そのことは言葉に表れているからです。
言語学的にを考察すると
国の言葉で、その言葉の中に同じような単語がいろいろな言葉で表現されていたら、その国民はその単語の一つ一つに同じ意味ながらも「微妙な」意味の違いを含ませて使い、そのもの自身を大事にしているといえます。
例えば日本。日本は四方を海に囲われた上に河川が多いので「水」というものに対して様々な単語で表現する。「お冷」「お湯」「さゆ」「水」出そうと思えば結構出てきます。しかし、アメリカでは「WATER」=「水」はあっても「お湯」という単語が存在せず「BOILD WATER]」という表現しかないという具合で「水」の捉え方に意識の違いがある。
これだけで日本人が水に対して高い価値観を有する民族だと言えるのです。

一方、日本語には「自由」を表す単語は自由「のみ」である。
農耕民族であり、天皇制であった日本には自由とは支配下、集団内での自由が大半で何種類もの自由を意識しなかったのかもしれない。
英語には、リバティー「Liberty」とフリーダム「Freedom」という言葉がある。
訳すとどちらも「自由」でしかない。でも、しっかり使い分けられている。

リバティー「Liberty」とは他人の権利とぶつかってでも自分の権利を主張しようとする攻撃的、能動的な自由をさし、自由の女神の英語名は「the Statue of Liberty」であるから、自由を勝ち取る女神のことを意味し、フリーダム「Freedom」とは争うものではなく、そのままであり続けることや、何もしないという受動的、防御的な自由を意味している。
欧米には自由と言うものを使い分ける必要性が多くあったのでしょう。
だから、言葉が二つ存在するのです。
自由は日本以外から来た考え方であるから、その意味を知って、しっかり自由というものの意味を考え、自分の中で自由の意味を捉えておくといいと思いますよ^^
言葉遊びでなく、真なる意味を自分なりに探求していかなければいけないと日々思っています。