孤独な音楽家の夢想 -3ページ目

人生の秋・1

 三枝先生が行くはずだった新国立劇場のワーグナー《トリスタンとイゾルデ》(指揮:大野和士、演出:デイヴィッド・マクヴィカー)公演の初日チケットを先生からいただいて観劇してきたことをきっかけとして、僕の人生の大きな針が、少し進んだように思える。

 演奏や演出についていろいろ思うことはあったが、そのことは別として、作品に対し大きな衝撃を受けた。・・・これは、三枝先生が1983年にはじめてバイロイトで観劇した《トリスタンとイゾルデ》(指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:ジャン=ピエール・ポネル)公演において、幕間に椅子から立ち上がれなくなるほどの衝撃を受けた・・・ということと関係があると思っている。なぜなら、先生が観るはずであった席で、僕が代わりに観たのだから・・・。・・・この場合、「観た」という言い方は正しくないし、「聴いた」というのも正しくないだろう。「目撃した」と言った方がいいだろうし、「体験した」と言うべきである。・・・この体験を、僕は運命的な出来事であると感じる。先生が当時41歳。僕は遅ればせながら46歳。だからと言って僕が遅かったということはない。逆に今だからこそ、これほどの衝撃を受けたのだから・・・。・・・圧倒的な音楽の力と言葉の深淵。繰り返される無限の生の衝動とドラマ。・・・それを生で実感できたこと。このことは、僕のその後の人生や音楽に、はかりしれない作用を及ぼすであろう。

 

 今、机の上に雑然と積んであるもの。・・・DVD『トリスタンとイゾルデ』(1983年 バイロイト祝祭劇場)、CD『レオナン/ペロタン:ノートルダム楽派の音楽』、堀越孝一著『中世ヨーロッパの精神』、中世文学全集Ⅰ『アーサー王の死』、ホイジンガ著『中世の秋』、永野藤夫訳『全訳 カルミナ・ブラーナ』、CD『カルミナ・ブラーナ 1300年頃の手写本より』、ノヴァーリス著『青い花』、メーテルリンク著『青い鳥』、ショーペンハウアー著『意志と表象としての世界』、ニーチェ全集、岩本裕編訳『原典訳 ウパニシャッド』、西田幾多郎著『善の研究』、玄侑宗久著『現代語訳 般若心経』、CD『SCIENCE FICTION』・・・。・・・これぞ僕の趣味の世界、というものたちが積まれ、嬉しそうにその時を待っているのだが、これらをしげしげと眺めていると、巡りめぐって、この歳にして再びここに還ってきたことを、改めて実感せざるをえない。例えば、「般若心経」は中学生の頃に読んで衝撃を受けたものである。また、僕の読書の原点はニーチェであるし、僕の哲学の原点はショーペンハウアーであるのだから・・・。まさに、このような実感は、永劫回帰の肯定以外何ものでもないだろう。

 

 このように夢見心地なことを三枝先生に話すわけにはいかないが、僕が観に行った新国立劇場《トリスタンとイゾルデ》の合唱指揮をしていた三澤先生に話したら、とても関心を示しているようだった。プロの音楽の現場で音楽のことを話すことは稀なことだが、そういうことは、本当は面白い、と。永劫回帰など、僕は全く信じていないのであるが、そういうことが本当にあるのかもしれない・・・。もし本当にそうであるならば、僕にはまだ未来があるというものだ。やはりまた来年、満開の桜が見たいものだし、それきりそのままになってしまっているいろいろなことにも、再びチャンスが巡ってくるのかもしれないのだから・・・。それきりそのままは、あまりにも悲しい・・・。三澤先生が面白いことを言っていた。神は縁を引き寄せる存在である、と・・・。それが巡りというものなのかもしれない・・・。巡り・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

新全日本都道府県歌再興委員会・第17弾!(3周年)

 新全日本都道府県歌再興委員会が3周年を迎えました。

 試行錯誤、紆余曲折、七転び八起き・・・。どうにかこうにか、ここまでやってきました。と言っても、僕は何もやっていません。すべては委員長のクロちゃんがやっています。本当にありがたいことです・・・。彼は本当のクリエーターなのでしょう。機械が好きということもあるでしょうね。そして、新しいもの好き、というのもあります。では僕は・・・と言うと、そういうことは、まったくダメです。僕はどちらかと言うと、アナログ人間で、古いもの好きです。歴史や地理、宗教などが好きですが、この活動には、何の役にも立ちません。せいぜい、ロケで歴史的スポットや神社仏閣を推したり、それらを効率よく回るのに運転したりするくらいです。ですので、正真正銘、お飾りの会長となっています。・・・でも僕たちは、それでいいのです。動画で3人を見ていただければよく分かるとおり、3人のバランスがいいのだと思います。再興長のまっつんは、きっと、頭がいいのでしょう。記憶力が抜群で、特に音楽に関しては恐ろしいほど能力に長けています。そして、独特な感性を持っていて、委員会の飛び道具的役割を担っています。ともかく、3人は仲良しです。同じ釜の飯を食う・・・ではありませんが、いつも一緒に呑んでいるのがいいのだと思います。いろいろなアイデアは、いつも呑みながら、そして笑いながら出し合っているので、とても自由で、いい加減にゆるく、いい意味で適当です。そんな仲間内の肩がこらない感じがいいのかもしれません。これまで通り、気長にやっていけるといいと思っています。

 しかしながら、日本全国の都道府県歌すべてが完成するのは、一体、いつのことになるのでしょうか・・・。こればかりは誰にも分かりません。神さまだけが知っているでしょう・・・。年明けに、関東を制覇できたのは、本当に奇跡です。怒涛の追い上げがなければできませんでした。こういうものは、ある程度、勢いが必要ですね。けれど、日本制覇の壁は厚いでしょう・・・。皆さん、僕たちが挫折しないように、応援してください。

 

 コロナ渦にはじまった新全日本都道府県歌再興委員会。2021年3月13日に、卒業シーズンということで〈旅立ちの日に〉をアップしたのがはじまりでした。

 ・・・あの頃のことを改めて思い返すと、僕の価値観がまるで変わったことを実感します。コロナ前の僕は、とても盲目的だったように思います。戦後日本の高度経済成長期ではないですが、いろいろな意味で、自分という存在は、右肩上がりに成長し続けている、と思い込んでいたのです。どこからそんな自信が湧いてきていたのか分かりません。けれど、コロナをきっかけとして、決してそうではない、ということに気づきました。僕は一生懸命に背伸びをしていたのだ、と。既に足元がふらふらしていたのにもかかわらず・・・。僕は地にしっかりと足をつけることが大切だということに、はじめて気づきました。そんな当たり前のことが、当たり前でなかったように思います。地に足をつけてみて、世界の見え方がガラリと変わりました。とてもありがたいことです。まるで、野に咲く花のような気分でした・・・。けれども、残念ながら、コロナ渦に大切なものをたくさん失ってしまいました。仕方がないことだったのでしょう・・・。(仕方がないと割り切ることができませんが・・・。)しかし、神さまは僕を捨て置かなかったのです。その代わり、と言うと少し違うのかもしれませんが、コロナをきっかけとして、大切なものをたくさん得ることができたのです。・・・そう、そのひとつが、新全日本都道府県歌再興委員会なのです。

 特に、僕が嬉しいと思うことは、自分の歌を見直すきっかけになったことです。自宅で録音できる環境が整ったことは、とても大きいことでした。それまでの僕の歌は、とても主観的だったと思います。それが良い、と疑っていませんでした。しかし、録音というとても残酷な体験を経て、はじめて、客観的な自分の歌、というものに出会いました。・・・この視点が、歌にとって、とても重要なのです。僕は自分の部屋で、まるで鏡の中を覗き見るように、自分の歌に正面から向かい合っています。すると、良いところも、悪いところも、本当によく見えます。それを、ありのままに見る心を養わなければなりません。そして、何よりも大事なことは、創意工夫です。10回録り直すのならば、10通りのアイデアが必要です。100回ならば、100通りです。これは笑い話になりませんが、僕はあまりにも熱中しすぎて、エントランスのエレベーター前に、苦情の張り紙が貼られてしまいました。「昼夜を問わず激しい歌声が聴こえる」、と。本当にごめんなさい・・・。正直、こんなに熱中すると思っていませんでした。やはり、僕も、物作りが好きなのかもしれません。自分の美意識に照らし合わせて、嫌なものは嫌だし、良いものは良いのです。気持ち悪いとか、気持ち良いとか、そういう単純な感覚です。創意工夫とは、自分自身への探究心であり、意欲であり、成長であり、喜びであります。・・・おかげで、歌うことが、とても楽しくなりました。おかげで、音楽をすることが、とても楽しくなりました。本当に・・・。

 コロナ渦にはじまった新全日本都道府県歌再興委員会ですが、コロナ後の自分の希望のようなものを、この活動に見出しているように思っています。

 

 末長く、応援をよろしくお願いしいます。

 

◆【再興】関東地方の歌【まとめ】

https://www.youtube.com/watch?v=dWNxbAWoICE

 

◆3年間を振り返ったら『思い出がいっぱい』だった!

https://www.youtube.com/watch?v=dLWy1YCrC1g

 

by.初谷敬史

大阪の佃・2

(承前)

 

 よそ者が入ることが許されない細い路地を、あまりふらふら歩いて、不審者と思われてもいやなので、僕は佃島を後にすることにした。

 千船駅へと戻り、神崎川にかかる千船大橋を渡った。対岸は、大和田村のあったところである。古地図を見ると、ここも、かつては中州だったようだ。

 橋を渡り終えて、スマホの地図と勘を頼りに、かつての大和田村に入る。僅かな標高差や、道の曲がり具合などを慎重に確かめながら、昔の島の形を想像して歩いた。けれども、ここは、地形を把握するのが容易かった。現在の神崎川に沿うように曲がって作られた道は、中央部分が大きく盛り上がっており、ここがかつての堤防だったことが伺える。この道に沿って、独特な形の区画があらわれる。・・・これが、かつての中州の形のはずだ。その突端に神社があった。大和田住吉神社である。大阪佃島と同じように、大和田でも中州を船(木の葉を上から見たような船の形)のように見立て、神社が島を守っているのだろう・・・。この神社も、住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命)と神功皇后が祀られており、田蓑神社(住吉神社)と関係が深いことが伺えた。きっと、田蓑神社から分霊したのだろう・・・。元応2年(1320年)9月19日の勧請と伝えられている。

 

 橋を渡って、なぜ僕がここに来たのか・・・。それは、徳川家康の命によって、大阪から江戸に移住したのは、大坂佃村の人々だけではなかったからである。『佃島年代記』によれば、佃村の漁師27人と、大和田村の漁師6人の33人が、1602年(慶長7年)7月26日に摂津国を発ち、8月7日に江戸に着いた、と記載されてある。・・・彼らは志を共にする仲間だった。

 『大阪の佃 延宝検知帳』(和泉書院 2003年)には、その33人の名が明かされている。東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある墓碑に、下記の33人の名が刻まれてあるというのである。忠蔵、忠右衛門、喜兵衞、伊右衞門、宇右衞門、勘十郎、仁兵衞、仁左衞門、太右衞門、孫左衞門、喜左衞門、五郎兵衞、太左衞門、伝兵衞、清兵衞、久兵衞、半四郎、勘左衞門、吉右衛門、善九郎、五左衞門、孫兵衞、善五郎、市兵衞、太郎左衞門、平左衞門、五兵衞、長兵衞、長四郎、長兵衞、太兵衞、六左衞門、庄左衞門(うち長兵衞が重出してあるのは再検を要する)、と。そして、「ほとんどの者の出自は、大阪佃村のうち西嶋にあり、大和田村もしくは村内各所に耕地を有する者ないしはその家族のうちの青年たちが参加したものといえるようである」と説明がある。しかし、この中で、誰が大和田村出身なのかは分からない。

 且つ、江戸に移住したのは、33人だけではなかった。田蓑神社の宮司である平岡正太夫の弟、平岡権太夫好次が、田蓑神社から分霊して祀るために江戸に下り、佃に住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命)と神功皇后、そして、徳川家康の分霊を祀り、住吉神社を創建した。・・・漁民と宮司を合わせて34人。

 

 では、大和田村の人々とは、一体どのような人々であり、佃村の人々とどのような関係にあったのだろう・・・。先ほどの『大阪の佃 延宝検知帳』の説明では、出自が佃村で、大和田村に耕地を有する者とある。けれども、大和田住吉神社を田蓑神社から分霊したとするならば、既に大和田村に住みついていた人々、と考えるのが自然ではないだろうか・・・。つまり大和田村は、佃村とは別の村であり、別の神社があり、別の祭りがあり、別の組織であったと考えられるわけだ。佃村の森孫右衛門が、徳川家康にとって隠密・海賊の頭だったとするならば、大和田村の人々は、その別動隊であったのだろう。(ドラマ『水戸黄門』において、森孫右衛門を「水戸黄門」とするならば、佃村の人々は側近の「助さん」「格さん」であり、大和田村の人々は「風車の弥七」ではないか、と僕は考える。)

 僕がそのように考えるのには、ほかに理由がある。『関東御祓配帳』(貞享2年 1685年)を見ると、江戸佃における島の組織が記載されてある。この資料は、大阪から江戸に移住して83年が経過しているので、既に2世や3世の時代となっている。そこに驚くべきことが書かれてある。佃島の組織は、「名主」をはじめとして、「佃島・組頭衆」と「大和田網衆・組頭衆」とに割り振られていたのだ。それぞれに、指名も記載されてあった。このことから、佃村の人々と大和田村の人々は、一緒に江戸に下り、一緒に佃島に住んだとは言え、それぞれのアイデンティティや血統を保っていた、ということが分かる。つまり、大阪佃村の出身者と大和田村の出身者には、明確な区別があったということになる。これは、大変な驚きである。きっと彫り物も異なっていたのだろう。

 

 そこで、別の資料を見てみる。吉田家旧蔵史料『佃島地わり』(正保三丙戌年三月 1646年)の絵図である。これには、佃島の当時の地割りが書かれている。(移住から44年後の資料である。)地割りは、漢字の「川」の字に、南北3列の区画に分かれていた。佃小橋を挟んで西側に「川」の一画目と二画目、東側に三画目となる。(現在の区画と同じである。)江戸城に一番近い一画目は、北から南へ順に1から9までの番地で地割りされている。他に比べ土地面積が広い。二画目は、一画目同様、北から南へ10から24までの番地で地割りされている。一画目よりも土地面積が狭い。三画目は北から南へ25から36の番地で地割りされており、面積が狭い。広い地割り以外の狭い地割りの面積は平等に見える。きっと、「名主」などの上役は、上位の番地が割り当てられたのであろう。・・・この36の地割りを、そのまま、大阪から来た34人に割り当てたとは、あまりに単純すぎるが、これは的外れではなく、おおよそ、そのようなことがあったのだろう。

 ・・・移住から83年が経過しても尚、「佃島・組頭衆」と「大和田網衆・組頭衆」とに役割が分かれていたという事実から考えれば、僕は、大阪佃村から来た人々と、大和田村から来た人々とでは、割り当てられた区画が違ったのではないか、と推測する。これはあくまで推測なので、専門家の批判を覚悟で述べなければならない。例えば、「川」の字の、一画目と二画目は、佃村から来た人々に、そして三画目は大和田村から来た人々に、という風に割り当てられたのではないか、と。この推論は、大阪の佃村と大和田村の位置関係と、江戸の佃島の形を比べてみると納得できると思う。大阪の佃村と大和田村の間には神崎川が流れており、神崎川の西側に佃村があり、東側に大和田村がある。ふたつの村は別々の島にある。江戸の佃島も、佃川支川を挟んで、西側と東側に島が分かれている。このように考えるならば、大阪に住んでいた時と同様に、佃川支川の西側に佃村の人々が、そして東側に大和田村の人々が住むことは、ごく自然なことのように思われるのだ。

 もし、本当にそうであったならば、それぞれの気質や伝統が、時間と共に混ざり合うことなく、そのまま子孫に受け継がれてきたとしても不思議ではない。決してよそ者を入れない島である。・・・そこで、僕は思うのである。もしかしたら、そうした差異が、現在の住吉講「壱部」「弍部」「参部」の気質や伝統の差異に繋がっているのではないか、と。現在、氏子の地域が広がり、佃一丁目が「壱部」、佃二丁目が「弍部」、佃三丁目が「参部」というように分かれているのだが、それぞれの部で、明らかに気質や伝統が異なっており、それが、それぞれの部のアイデンティティとなっている。

 

 実際に歩いてみると、大阪の佃と大和田では、土地の持つ雰囲気が全く違うことがよく分かる。出自を同じとする彼らは、同じように漁をし、同じように田を耕し、同じように隠密のような役目を担っていたのだろうが、双方には違った気質や伝統があったことが、現在の街の雰囲気から伝わってくる。土地の持つ力であろうか・・・。

 しかし一方で、彼らは、浄土真宗本願寺派の同じ門徒であり、同じ志を持っていたと考えられる。まるで兄弟である。だから彼らは、一緒に苦難を共にすることができた。一緒に戦乱の世を生きぬき、一緒に徳川家康を護り、一緒に江戸に下り、一緒に佃島を埋め立て、一緒に築地も埋め立てた。

 

 僕は恐る恐る、大和田住吉神社の境内に入った。そして、本殿に静かに手を合わせ、田蓑神社で報告したのと同じように、東京の佃から来たことを報告した。

 ・・・けれど、ここでは、田蓑神社で受けたものと異なる印象を受けた。穏やかさや親和性とは程遠く、どちらかと言うと、冷たさや疎外感のような印象を受けた。なぜだろう・・・。同じ神さまなのに・・・。それは分からないが、この殺伐とした雰囲気は、もしかしたら、ここが幾多の戦場となったからかもしれない・・・。場所が特定されていないというが、石山合戦の際に、石山本願寺の支城となった大和田の砦(大和田城)は、この神社を含む大和田5丁目であったと推測されている。この神社に併設された大和田北公園を含む区画の形や雰囲気を見ると、明らかに城郭を思わせるものがある。そうであるならば、この区画を取り囲む道路に見られる、明らかに人工的な道路中央部分の盛り上がりは、かつての堤防が、土塁に作り変えられた跡であるように思われる。間違いなく、ここで多くの血が流れた・・・。

 その菩提を弔うかのように大和田住吉神社の脇に、静かに安養寺が立っていた。また同じ5丁目には善念寺がある。これらは、浄土真宗本願寺派の寺院である。佃村の人々と同じように、大和田村の人々も、住吉神社の住吉講員であると同時に、本願寺の門徒でもあった。門徒であるために、血が流れたのであるが・・・。

 

 ・・・ところで、あの朝、僕がなぜ、心斎橋で、佃島を閃いたのか・・・。それは、今になって思えば、冷たい雨がしとしとと降っていたから・・・と答えることができる。だから僕は、すぐに鶴となって、佃島に舞い降りたい・・・と思ったのだろう。そう、雨が降っていなければ、僕は大阪の佃を訪れるチャンスに巡りあうことはなかったのだ。そんな風に思うと、古の歌が、じんわりと心に沁みてくる。

 

  雨により たみのの島を 今日ゆけど 名には隠れぬ ものにぞありける

 

 これは、紀貫之が詠んだ歌で、『古今和歌集』に収められている。「雨が降っているので、蓑を頼りに田蓑島へ行ってみたが、蓑(みの)という地名だけでは、身体を隠すことができず、雨に濡れてしまった」という意味である。

 

  難波潟 潮満ちくらし 雨衣 たみのの島に たづ鳴き渡る

 

 これも『古今和歌集』に収められている歌で、読み人知らず。「大阪湾の干潟に潮が満ちてきたので、田蓑島の方へ鶴が鳴きながら飛んできたよ」という意味である。「雨衣」(あまごろも)は「蓑」(みの)を導く枕詞となっている。

 

 ・・・この旅は、僕にとって一体、どんな意味があるのだろう。聖地巡礼と言えば、それまでだが、僕にとって大切なことは、やはり、自分のルーツを知るということであろう・・・。僕の生きる今は、遠い、遠い、過去から、確実に繋がってきたものである。別の言い方をすれば、過去の大いなる存在の不可思議な衝動が、現在の僕の不可思議な衝動に繋がっている・・・。だから僕は、その衝動の元となった古の地に、どうしても行って確かめなければならない。そこに実際に立ち、道を歩き、空気を吸い、残像を見て、痕跡に触なければならない。それが、僕の現在を知ることとイコールであるのだから・・・。

 ここは、古い、古い、土地である。・・・軽く弥生時代まで遡ることができる。神功皇后が、三韓征伐(朝鮮半島の馬韓・辰韓・弁韓を征服)の帰途に、船で立ち寄ったのが田蓑嶋(大阪佃村)である。また、『万葉集』には大和田村の景色が詠われ、『古今和歌集』や『源氏物語』には田蓑嶋が詠われた。嵐にあった源義経は、大和田住吉神社で祈った。・・・つまりここは、西国の海運・水運の要所であり、常に歴史の表舞台だった。ここに住む人々は、歴史の渦に翻弄されてきた人々である。そんな彼らが、無意識に突き動かされていたもの・・・、それは、その時を懸命に生きるということであった。そうして、彼らは歴史を作り、死んでいった。けれど、それで終わりではなかった。それは彼らによって準備された次の時代のはじまりであり、次の世代に大切なものを受け継いでいったのだ。そう考えるならば、彼らを突き動かしていた大いなる意志を通して、彼らは永遠に生き続けていると言える。現に、僕はそうした不可思議な力によって、今の僕が、突き動かされているのだ。例えば、念願か、必然か、それは分からないが、ひょんなことから大阪佃や大和田を訪れたこと、そして、このブログを夜中に一生懸命に書いていること、そしてまた、「壱部」若衆の仲間に、酒を飲みながらこれらのことを得意げに話すことなど・・・、一般的には意味不明であり、何にもならないことではあるが、僕はこのように、僕にしかできないことを一生懸命にやっているのだ。だから僕は、そうしたことを一身に受けながら、その時が来るまで、彼らと同じように、懸命に苦しみながら生き抜かなければならない。やや大げさに言えば、それが、僕に課せられた使命なのだと思う。・・・そういうことが、この旅を通してよく分かったような気がする・・・。

 

 

by.初谷敬史

大阪の佃・1

 ひょんなことから大阪に行った。且つ、まとまった時間が空いた。せっかくだから、どこかで遊ぼうとも考えたが、これと言って、どこも興味が湧かなかった。しかも、冷たい雨が降っていた。・・・その時まで、まったく考えもしなかったことだったが、突然、閃いた——佃島。

 

 僕はさっそくスマホを取り出し、地図で場所を調べた。・・・遠くない。僕はこの時、心斎橋の喫茶店で、ゆったりとモーニングを食べていたのだ。

 ・・・なるほど、石山本願寺とは、淀川を挟んで絶好の位置にあるではないか・・・。兵庫の多田神社へも神崎川に船を出せば、そのまま乗って行かれる・・・。船が達者な彼らならば、堺へもすぐに駆けつけることができるだろう・・・。・・・僕は地図を大きくしたり小さくしたりして大阪中を隈なく眺めながら、埋め立てされていない当時の大阪湾の地形などを想像して遊んでいた。「難波八十島」と言うが、まさに、伊邪那岐、伊邪那美の「国産み」のロケーションにぴったりである・・・。・・・さて、神崎川の河口にある中州。ここだ。なるほど、隅田川の河口にある東京の佃島とそっくりだ。江戸における佃島と同じように、ここならば、関西における海運・水運の要所と言っても差し支えないだろう。海の民には、最も相応しい島と言えよう・・・。

 コーヒーを飲み終えるまで、ひとしきりスマホの地図で遊んだ。それからは、僕の行動は早かった。まるで背中に羽根が生えたかのように駅へと一直線。御堂筋線に乗って梅田駅へ。そこで阪神本線に乗り換えて、いざ、千船駅へ。僕はワクワクしながら、広々とした淀川を渡った。まるで、雨の大空を舞う鶴の気分である・・・。約30分の行程。

 

 ・・・念願とは、このことだ。必然とさえ感じる。(ただし、僕自身の念願というよりも、こうなるように決まっていた、という意味である。)新型コロナが流行して、世界から僕が完全に切り離されてしまった時、ここの神さまが繋いでくれた、小さな、小さな縁・・・。ダメになってしまいそうな僕の心に、小さな希望の炎を灯してくれたのだ。・・・もし本当に、人と人との縁が、網の目のように繋がっているのならば、自分の意思に関係なく、縄が細くなったり、太くなったり、結び目が解けそうになったり、より強固に結ばれたり、そこには、何かとてつもなく大きな存在の意志が、働いているのかもしれないと思う。実際、コロナ渦で、僕はとても大切なものをたくさん失ったのも事実だが、反面、とても大切なものをたくさん得たのも事実である。こうしたことは、流動的で、衝動的な運命の悪戯のようにも思える。

 ともあれ、僕はコロナ渦を、何とか生き延びてきた。そして、当初、考えもよらないことであったが、佃住吉神社の例祭にも、佃住吉講「壱部」若衆として参加することができた。新たな仲間と共に、新たな活動がはじまったのである。・・・まだ、結果と言うのには、あまりにも早すぎるが、僕のこうした現在の状況を見てみると、僕を僕たらしめている無意識的な衝動と、この佃島をめぐるいろいろな存在の無意識的な衝動とが、完全に一致した、と思わざるをえない。つまり、これは偶然とは言い難く、どこか、古い、古い、縁のようなものを、僕は感じるのである。でも、それが何かは分からない。隠されているのだ・・・。

 そして今、思いもよらなかったことが実現しようとしている。驚くべきことに、淀川を渡り、大阪の佃島に足を踏み入れようとしているのだ。これまで、全く縁もゆかりもなかった島だと言うのに・・・。

 

 神崎川を渡る鉄橋の車窓から島を確認する間もなく、千船駅に着いた。いや、降り立ったと言った方が良さそうだ。しかしながら、厚い雲が浮かんでいるものの、雨はすっかり上がってしまったようだ。それにはすっかり拍子抜けしてしまったが、実際、街歩きにはありがたい・・・。雨具もなく、ずぶ濡れでは、せっかくの冒険が台無しである。(僕の訪問を受けて、運気、すなわち、ここに存在する無数の大いなる意志が、変化しているとでもいうのだろうか・・・。)

 阪神本線の千船駅は、佃島にある小さな駅だ。駅前は、想像していたよりもずっと殺風景。・・・ここで、間違いない。その独特な雰囲気に、妙に納得した。僕はそこに、東京の佃島の雰囲気を重ねていたし、尚且つ、かつて友だちが住んでいた足立区新田の雰囲気も重ねていた。ここは、古い漁村の跡であり、古い新田の跡なのだから・・・。

 僕はスマホの地図と勘を頼りに、慎重に道を選び、神社へと向かった。「ブラタモリ」ではないが、些細な標高差や、道の曲がり具合なども、昔を知るには、大きな手がかりとなる。「海抜マイナス0.3メートル」の標識は、島を囲む高い堤防を見ればすぐに理解できる。それらを手がかりに、昔の島の形を割り出し、昔の佃村の位置を探っていく。中州なのだから、より高い土地に村を作ったに違いない・・・。とするならば、こちら側が新田だろう・・・。昔の中州の範囲は、その時の水量にもよるが、今よりも狭い面積だろうと思うのだ。・・・とすると、この曲がった道が、川と陸との境ではないか・・・。その憶測をもとに、昔からの神社や寺院、墓地の位置を、地図で確かめる。このように、僕はおおよそ的を絞り、路地へと入っていく。・・・間違いない。ここが漁村の跡だ。そこに東京の佃島の雰囲気を重ねてみる。・・・長く、長く、深呼吸する。まるで、故郷のようだ・・・。来たこともない島で感じる、この懐かしさの不可思議・・・。それは、迎え入れるものと、迎え入れられるものとの、暗黙のうちの親和性であろうか・・・。ともかく、早く、神さまに挨拶をしなければならない。

 

 田蓑神社(住吉神社)は、佃村の一番奥、すなわち、神崎川上流、中州の突端に鎮座していた。神社がこの位置に建てられたのは、その神通力によって、船の難破を防ぐ意味があるのではないか、と僕は考える。きっと、この中州を船(木の葉を上から見たような船の形)に見立てているのだ。神社が巨石となって、川をふたつに分けている。

 ・・・僕は恐る恐る、境内に入った。そして、拝殿で静かに手を合わせ、東京の佃から来たことを報告した。拝殿の奥に社が4つあり、住吉三神である底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命と、神功皇后が祀られていた。そして、拝殿の脇には、東照宮が祀られており、ここが間違いなく東京佃の住吉神社のルーツであることが分かった。・・・神さまは、とても穏やかに、僕を迎え入れてくれたように感じた。東京佃は潮の香りだが、ここは雨の香りがする・・・。

 

 何とも居心地の良い神社だったので、しばらく境内にいて、いろいろなものを見てまわった。それから、漁村の跡であろう雨上がりの細い路地を、隈なく歩いた。路地は、大阪の佃島も、東京の佃島も、佃島を一番、特徴付けるものであろう。・・・狭い路地の空気は、人と人の間の人情と生活とを含んだ空気である。それは、現在も、過去も、変わらずにここにある。・・・路地にこもる独特な雨の香りは、彼らの苦難の歴史を含んでいる。・・・その空気を、深く、深く、吸い込んで、住吉講として参加した例祭のことを思った。

 神さま・・・。彼らは神さまと共に、どのように生きてきたのか・・・。それを容易に想像することはできないが、例祭に参加した僕には、少し感じるところがある。それはきっと、彼らの血の中にあるとも思うし、彼らの気質にあらわれ、彼らの魂そのものである、と言ってもいい。それらは、彼らと彼らの命の絆、つまり、彼らを繋ぐ網の目の間に流れる無意識の衝動のようなものが、彼らを生かし、その苦悩を、生活の知恵・伝統・文化として、幾代にも受け継いで来たのである・・・。これを、神の意志と呼んでもいいし、この島やこの海、そしてこの空気の意志と呼んでもいいし、はたまた、人と人の結びあいの意志と呼んでもいい。・・・そのような大いなるものが存在しなければ、あのような例祭が、今も続いているはずはない。そして、ここ、大阪の佃のこの空気も、東京の佃のあの空気も、近代化の波に呑まれ、とっくになくなっているはずである。どこにも存在しえないこの空気・・・。・・・それが、僕にはよく分かる。

 

 ちなみに、この村には、西法寺や正行寺、明正寺といった浄土真宗本願寺派の寺がある。それは、東京に築地本願寺があるのと同じである。(僕は、彼らと石山本願寺の一向宗と、何か関係があるのではないかと考えている。ちなみに、神崎川対岸の大和田村には、石山本願寺の支城である砦が築かれていた。)

 

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

ヴォクスマーナ第51回定期演奏会

■ヴォクスマーナ第51回定期演奏会

【日時】2024年 3月21日(木)開演19:00

【会場】豊洲シビックセンターホール

【料金】全席自由3000円(当日3500円)、大学生1500円、高校生以下1000円

□ホームページ http://vox-humana.wix.com/vox-humana

□Facebookページ https://www.facebook.com/voxhumana1996

 

【曲目】

山本裕之(b.1967)/ エミリからの手紙(委嘱新作・初演) 詩:Emily Dickinson

稲森安太己(b.1978)/ L'amor, l'alchimia e la pedantaria 愛と錬金術と衒学と(委嘱新作・初演)

渋谷由香(b.1981)/「黒い森から」12声のための(2016委嘱作品・再演) 詩:佐峰 存

小出稚子(b.1982)/ the smoke of kreteks(2018委嘱作品・再演)

伊左治直(b.1968)/ あさのうた(アンコールピース27委嘱新作・初演) 詩:小沼純一

【出演】

Sop:稲村麻衣子、神谷美貴子、佐藤百香、醍醐佑海

Alt:井上瑞紀、入澤希誉、矢加部幸恵

Ten:金沢青児、清見卓、初谷敬史

Bas:小野慶介、長部達樹、松井永太郎

指揮:西川竜太

 

 

◆ヴォクスマーナ定期賛助会員・新作委嘱活動支持会員募集のご案内

 ヴォクスマーナは、今年度の定期賛助会員と第51回定期演奏会の新作委嘱活動支持会員を募集しています。私たちの活動をご理解いただき、ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 ★定期賛助会員(年間)一口 15,000円

 ★新作委嘱活動支持会員(第51回)一口 10,000円

 

【問い合わせ・チケット取り扱い】

ヴォクスマーナ事務局 080-6610-2118 

           e-mail:voxhumana_info@hotmail.com

 

by.初谷敬史

中河原こども園「音楽で遊ぼう」・3

(承前)

 

 さて、この難題を終えて、ホッとしているところに、園長から再び依頼がきた——「園児に向けて、今度は、歌を歌ってほしい。だけれども、歌だけではなくて、お話をたくさんしてほしい」、と。僕は正直、困った・・・と思った。それから、園長は笑いながら、僕に簡単に言う——「いつもの感じでやってもらえれば、それで大丈夫です。」・・・「いつもの感じ」と言っても、何度も言うが、園児は経験がない。

 どうやら、これは「音楽で遊ぼう」という企画で、このこども園では、年に3度もやっているそうだ。外部から講師を呼んで、音楽を通じたさまざまな取り組みをしているそうだ。それはひとえに、園長が音楽好きだからであろう。いわゆる情操教育なのかな・・・。どおりで、園児たちはよく歌が歌えていたし、僕のような外部から来た講師にもよく慣れていた。(しかも僕は「歌のお兄さん」ではなく、「歌のおじさん」である。笑)ここから音楽教育を受けた子どもたちが巣立っていって、どのような人生を送って行くのか、本当に楽しみである。・・・このコンサートを聴いて、何か感じるものがあれば最高だ。

 

 ところで、僕はこれまで、園児のためのコンサートなどしたことがない。しかも、お話付き・・・。一体、何を歌って、何をお話すればいいのだろう・・・。流行りの歌など知らない。何が喜ばれるのか・・・。やはり、ディズニーやジブリだろうか・・・。やはり「音楽で遊ぼう」というテーマなのだから、子どもが喜ぶような音楽遊びをやらなければならないだろう・・・。〈おべんとうばこのうた〉や〈大きな栗の木の下で〉のような手遊び歌をやればいいのだろうか・・・。ふうむ・・・。

 すっかり行き詰まってしまった僕は、子どもたちに媚びるのをやめることにした。彼らが喜ぶものではなくて、せっかくならば、僕らしいもの、僕にしか出来ないものがいい・・・と考えたのだ。とするならば、僕が彼らに伝えたいことを大切にしよう、と。・・・では、何を伝えたいのか。そこで思ったのが、「歌はやさしさ、歌はこころ」という指導時のテーマだった。合唱指導の時に、僕が考えていたことを、今度は、僕がみんなに歌いながら伝えてみよう、と思ったのである。

 選曲に取り掛かったが、どうもうまくいかない。そこで、実家に帰った時に、書棚から、子どもの頃に使っていた楽譜『みんなのうた』を取り出して、ホコリを払って、ペラペラめくってみた。どの曲もよく知っていた。僕は少し口ずさんでみた。・・・すると、子どもの頃の記憶が、歌と共に溢れてきたのだ。幼い僕の記憶は、歌と共にあった。・・・これだ。

 僕は幼児教育の専門家ではないし、自分に子どもがいるわけでもない。だから、教育的立場で、コンサートを行うことはできない。そうではなく、みんなと同じ立場で、コンサートを行おう、と。つまり、子どもの頃の僕に戻って、歌を歌ってみよう、と考えたのだ。人生の先輩として、歌と共に生きてきた僕の経験を、懐かしい歌と共にお話することはできる。それを、それぞれが自分のこととして捉えてくれたら、もしかしたら共感することができるかもしれないな、と。

 

 コンサートは、とてもうまくいった。2歳児から5歳児まで。50分間という、長い、長い、コンサートだったにもかかわらず、じっとお座りをして、はじめから最後まで、よく歌とお話を聞いてくれた。知っている曲もたくさんあって、一緒に歌ってくれた。こころを尽くせば、こころに響くのかもしれない。本当にありがとう・・・。

 

 以下は、コンサートの原稿である。そのまま読んだわけではないが、記録として残しておこうと思う。

 

 ***

 

 みなさん、おはようございます。名前は、初谷敬史と言います。46歳です。みんなのお父さんやお母さんよりも、少し年上かもしれません。生まれたのは、みんなの住んでいる群馬県の隣にある栃木県足利市というところです。音楽の勉強をするために東京に出て、今は、東京で「おうた」を歌う仕事をしています。

 去年は、みんなの「おうた」を聴かせてもらって、本当にありがとうございました。みんなが一生懸命に歌っていたので、とても感動しました。今日は、そのお返しに、僕がみんなに「おうた」を歌いたいと思います。一生懸命に歌うので、よく聴いてくれたら、嬉しいです。

 「おうた」を歌う前に、少し「おはなし」をするので、聞いてください。

 

 僕は、みんなくらいの頃のことを、けっこう覚えています。みんなでストーブを囲んでお弁当を食べたのが美味しかったなぁ・・・とか、お友だちとお庭の隅でケンカしたなぁ・・・とか、同じクラスの高橋和美ちゃんのことが好きだったなぁ・・・桜の咲く木の下でデートしたっけなぁ・・・とか、おふざけして、早川先生に怒られたなぁ・・・とか。僕の行っていた幼稚園では、地下に暗い大きなお部屋があって、そこには怖いお化けが住んでいると、先生に教えられていました。悪いことをすると、そこに入れられてしまうのです。

 春になったら、みんなひとつずつ、「お兄さん」や「お姉さん」になりますね。ですので、今日は、みんなくらいの歳だった僕が、どんな風にお兄さんになっていって、どんな風に大きくなっていったのか・・・、そして、どうして歌手になったのか・・・、をお話したいと思います。

 

 みんなの中で、「おうた」を歌うのが、大好きなお友だちはいますか?

 僕は、みんなと同じくらいの時から、「おうた」を歌うことが大好きでした。どうしてかと言うと、多分、僕の周りに、いつも「おうた」があったからだと思います。みんなのお家では、音楽を聴くのに、「テレビ」とか「YouTube」で音楽が流れていると思いますが、僕のお家では、いつも「レコード」で音楽が流れていました。(レコードの説明。)そして、お父さんやお母さんが、よく「おうた」を歌ってくれました。それで、僕も、お父さんやお母さんと一緒に歌うようになりました。

 今となっては笑い話だけれども、〈花の街〉という「おうた」があります。「♪七色の谷を越えて、流れて行く、風のリボン〜」という素敵な「おうた」です。その続きは、「♪輪になって、輪になって、かけて行ったよ〜」という言葉になります。けれども、ここで何と、お父さんが言葉を間違えて歌っていました。「♪ワニがなって、ワニがなって〜」・・・僕は、想像しました。大きなお口のワニさんが、大きな木に、果物みたいにぶら下がっているのかなぁ・・・って。でも、小さかった僕は、それを間違いだとは思わなかったので、お父さんが歌っていた通り、「♪ワニがなって、ワニがなって〜」と一緒に歌って、すっかり覚えてしまいました。大人になってから、それが違うことに気がつきました。・・・こんな風に、僕のお家は、「おうた」に溢れた、楽しいお家だったのです。

 僕にとって「おうた」は、友だちのようでした。「おうた」は僕に、とてもやさしかったのです。そんな「おうた」と一緒に、僕は大きくなってきたように思います。

 

 それでは、僕が、みんなくらいの時に歌っていた「おうた」を歌いたいと思います。大きなお口のワニさんは出てこないけれど、いろいろな動物が出てくる「おうた」です。(横浜の「野毛山動物園」に行った話。)では、どんな動物が出てくるか、楽しみに聴いてください。

♪ いぬのおまわりさん(作詞:さとうよしみ、作曲:大中恩)

♪ アイ アイ(作詞:相田裕美、作曲:宇野誠一郎)(合いの手をみんなに)

 

 楽しい「おうた」だったね。

 次に歌うのは〈桃太郎〉という「おうた」です。みんな知っているかな?・・・犬と猿とキジが、桃太郎のお供になって、鬼退治に行くお話ですね! 

 みんなの中で、「年少さん」はいますか?

 実は、僕が「年少さん」だった時に、幼稚園の「おゆうぎ会」で、担任の早川先生が僕を、主役の「桃太郎」に選んでくださいました。赤と金色の立派な着物を着て、頭には白いハチマキをしっかり巻いて、腰には大きな刀をぶら下げました。そして、この「おうた」を歌いながら、日の丸の扇子を大きく振って、舞台に出て行ったのをよく覚えています。そんなことが、今に繋がっているのかなぁ・・・と思います。

♪ 桃太郎(作詞:不詳、作曲:岡野貞一)

 

 僕の通っていた幼稚園は、お寺の付属幼稚園でした。毎朝、幼稚園に行くと、はじめにホールの真ん中にいる仏さまに、お数珠を持って手を合わせました。それから、それぞれの教室に入りました。僕は先生に、「みんなは仏さまの子どもだよ」と教わっていました。僕はそれで、いつも幼稚園に行くと、仏さまの優しさに包まれているなぁ・・・と感じていました。それは、僕にとっては、先生の優しさに包まれているなぁ・・・と感じることと同じことだと思っていました。

 幼稚園では色々なお楽しみがあって、3月3日の「ひなまつり」が近づくと、ホールの真ん中にいる仏さまの横に、七段飾りの立派な「おひなさま」が飾られました。僕は、すごいなぁ〜、綺麗だなぁ〜と、「おひなさま」をしげしげと眺めて、〈嬉しい雛まつり〉の「おうた」の言葉の通りだなぁ〜、と思っていました。〈嬉しい雛まつり〉という「おうた」を歌うので、立派な「おひなさま」を思い浮かべながら、聴いてくださいね。

♪ 嬉しい雛まつり(作詞:サトウハチロー、作曲:河村光陽)

 (ここで「新全日本都道府県歌再興委員会」の宣伝。)

 

 さて、みんなの中で、「年長さん」はいますか? もう少しで小学校に上がりますね! おめでとうございます。

 僕も、あの頃の気持ちを良く覚えていますが、ワクワクする楽しい気持ちもあるし、ドキドキする不安な気持ちもありました。でも僕は、上にお兄ちゃんとお姉ちゃんがいたので、どちらかと言うとワクワクする楽しい気持ちの方が大きかったです。お家で、お兄ちゃんやお姉ちゃんから、小学校のいろいろなお話を聞かせてもらっていました。それから、小学校の「校歌」は、もう幼稚園の頃に歌えるようになっていました。お家で、小学校の「校歌」を、家族みんなで歌っていたからです。

 「年長さん」は、もうすぐ卒園になりますね。僕の卒園の時、「卒園アルバム」に、担任の早川静枝先生が書いてくださった言葉を、僕はよく覚えています——「たかしくんの、気持ちよさそうに歌うところが、先生は大好きです」・・・この言葉は、今でも、僕の大切な言葉です。今でも、先生の書いてくださったこの言葉に、僕は導かれている気がします。

♪ 一ねんせいになったら(作詞:まどみちお、作曲:山本直純)

 

 これからは、小学校に入ってからのお話をします。

 僕は小学校に入学しても、変わらずに、「おうた」を歌うことが大好きでした。国語や算数も好きでしたが、音楽の時間が、本当に楽しみでした。そして、小学3年生の時に、担任の小山好子先生が、僕に声をかけてくださいました——「ねぇ! 初谷くん! 街の少年少女合唱団に入ってみない?」・・・僕はびっくりしましたが、「おうた」が好きだったし、楽しそうだったので、オーディションを受けてみることにしました。そこで、勉強が終わった後に、音楽室で、先生が「おうた」の歌い方を教えてくださいました。それが、〈春が来た〉という「おうた」です。オーディションは、先生のおかげで、緊張もせず、伸びやかに歌うことができ、見事に合格することができました。その時の〈春が来た〉を歌いますので、聴いてください。うまく歌えるかな・・・。

♪ 春が来た(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一)

 

 僕はこんな風に、みんなの前でお話をしていますが、実は、おしゃべりすることが、とても苦手です。うまく自分の言いたいことを、その時に言うことができません。学校の先生は、「大人になったら、うまくおしゃべりできるようになるから・・・」と、いつも僕を励ましてくださいました。でも僕には、うまくおしゃべりできない代わりに、「おうた」があったのです。「おうた」なら不思議と、自由に、僕の気持ちを、人に伝えることができるように思えました。「卒園アルバム」に早川先生が書いてくださった言葉——「たかしくんの、気持ちよさそうに歌うところが、先生は大好きです」——の「気持ちよさそうに」というのは、人に僕の気持ちを伝えることができないもどかしさの裏返しです。歌う時は、僕の気持ちが「おうた」に乗っているので、先生には「気持ちよさそう」に感じられたのだと思います。だから僕は、「おうた」をいつも、きれいに歌おう、とは思っていません。言葉にすることのできない僕の気持ちを込めて歌おう、と思っています。

 次に歌うのは、大切な友だちを歌った〈サッちゃん〉という「おうた」です。そして、大切なお母さんを歌った〈おかあさん〉という「おうた」です。

♪ サッちゃん(作詞:阪田寛夫、作曲:大中恩)

♪ おかあさん(作詞:田中ナナ、作曲:中田喜直)

 

 僕は、普通の歌手がやっていないことをやっています。僕は、みんなのお父さんのお父さんの、そのまたお父さんくらいの、たくさんの人たちに向かって、今日のように「おうた」を歌ってくることをしています。でも、その人たちは、さっき〈アイ アイ〉を歌いましたが、お猿さんのいっぱいいる、遠い、遠い、南の島で、死んでしまった人たちです。その人たちは、とても若かったのに、日本が、外国と戦争をしてしまったので、たくさん死んでしまいました。僕たちを守るために、戦ってくださったのです。僕たちは、その人たちから繋がった、大切な命なのだと思います。でも今、その遠い、遠い、南の島に行っても、何もありません。まるで戦争をなかったことにするかのように、深い、深い、ジャングルで、島は覆われてしまっています。でも、僕が、その何もないジャングルに向かって、一生懸命に「おうた」を歌うと、その向こうで、その人たちが、ここにいるみんなと同じように、じっと、僕の「おうた」を聴いてくれているような気がします。

 ・・・「おうた」は不思議だなぁ・・・と思います。きっと、「おうた」にはやさしさがあって、そのやさしさが、人と人の心を結びつけるのかなぁ・・・と思っています。

♪ 大きな古時計(作詞・作曲:Henry Clay Work、訳詞:保富康午、平井堅バージョン)

♪ 手のひらを太陽に(作詞:やなせたかし、作曲:いずみたく)

 

 今日は、僕の「おはなし」と「おうた」をよく聴いてくれて、とても嬉しかったです。春になったら、みんなひとつずつ、「お兄さん」や「お姉さん」になるので、先生にたくさん教えていただいた「おうた」と一緒に、大きくなっていってほしいなぁ・・・と思っています。今日は、ありがとうございました。

 

 

by.初谷敬史

中河原こども園「音楽で遊ぼう」・2

(承前)

 

 そこで、僕がヒントにしたのは、甥っ子である。今4歳なので、ちょうど「年中さん」である。そんなに頻繁に会っているわけではないが、彼をイメージすれば、おおよそ、園児の想像がつく。彼よりもちょっと小さいのが「年少さん」であり、彼よりもちょっと大きいのが「年長さん」だ。けれども、相手がひとりではない・・・というのが厄介なことである。ひとりならまだしも、大勢・・・。あのくらいの子どもたちが、集まったらどうなるのか・・・。・・・僕は、本当に恐れていた。しかも、百戦錬磨の先生たちが見守る中である。僕は幼児教育の専門家ではないし、自分に子どもがいるわけでもない。なぜ、園長は僕に頼んだのか・・・、不思議でならなかった。園長は笑いながら、僕に簡単に言う——「いつもの感じでやってもらえれば、それで大丈夫です。」(園長は、「新町歌劇団」の団長である。)・・・「いつもの感じ」と言っても、何度も言うが、園児は経験がない。僕が歌うならまだしも、教えるのである。僕からの「一方通行」でなく、「やり取り」をしなければならないのだ。しかも、ひとりではなく、大勢と・・・。

 けれども、これは経験がないので、考えても仕方のないことだ。だから、僕は現場主義に徹することにした。・・・これまでの積み重ねが、僕にはある。自信を持って臨めば、現場判断でどうにかなるだろう・・・と、高を括ることにしたのだ。

 ただし、そうは言っても、保険として、おおよその予想を立てていた。幼稚園の先生は、園児たちの声が出ていないといけないので、まず、元気に歌わせることを目標としているだろう、と。・・・もちろん、子どもなのだから、元気に歌えれば、それでいい、という考え方があろう。そして、発表会に出るのに、みんなが覚えていないといけないので、何度も歌わせて、身体に覚えこませているだろう、と。・・・発表会となると、父兄も来るわけで、なるべく、自分の子どもが、みんなと同じことが出来ているといい。よく教育されていることに安心し、よく育っている姿を見られることは、父兄にとって何よりの喜びとなるだろう。・・・こうした過程において、歌にとって大切なことが抜け落ちている可能性があるのではないか・・・。それならば、そこを中心に教えればいいのではないか・・・、と考えたのである。そこで、僕はテーマを、自分の中で決めていくことにした。それが「歌はやさしさ、歌はこころ」である。

 

 実際に行ってみると、僕の予想を遥かに越えて、園児たちは、よくしつけられていた。園長と一緒に教室に入っていくと、既に整列していて、「気をつけ」の姿勢で待っていた。そして、先生のピアノに合わせてお辞儀をした。園長が僕を紹介して、すぐに授業となった。

 僕はまず、普段練習している通りに歌ってもらうことにした。難しい曲に取り組んでいることに驚いた。年少さんの「すみれ組」(3歳児)は〈なかま〉(作詞・作曲:山口たかし、編曲:大友剛)、年中さんの「ひまわり組」(4歳児)は〈地球の歌〉(作詞・作曲:坂田修一、編曲:池毅、ピアノ編曲:武永京子)、年長さんの「さくら組」(5歳児)は〈地球が一枚の板だったら〉(作詞・作曲:傘村トータ LIVE LAB.、編曲:小松一也、ピアノ編曲:谷口尚久)に取り組んでいた。どれもとても難しかったが、先生の教えが良いのだろう、みんな、とてもよく歌えていた。特に、年長さんの歌っている〈地球が一枚の板だったら〉は、初見で歌うことが出来ないほど難しい。

 僕がみんなの歌を聴いて、やはり、発声法を教えるのがいいと感じた。歌の基本だからである。幼稚園の先生は、普段、そういうことは教えていないだろう。せっかく専門家が来たのだから、専門的なテクニックを教わった方がいい。この中で、長い人生、声楽の専門家に、正しい発声法を教わることが一度も経験しない子がいるかもしれない。小さい時に本物を知ることは、良いことだ。・・・そのように考えたら、なるべく正しいものが身につくように伝えたい、と思った。そこで、取り組んだのが、「腹式呼吸」である。「腹式呼吸」を正しく行うことで、「しゃべり声」や「どなり声」ではない「うた声」に変わるのだ。同時にこれは、「音高」や「音の長さ」の基本を教えることにも繋がる。「しゃべり声」や「どなり声」では、「音高」を正しく取ることが難しいし、「音の長さ」、つまり「リズム」も崩れてしまう。ソルフェージュの分野であるそうしたことが、「うた声」のテクニックとして、しっかりと捉えることができるのである。歌を歌うのであれば、それぞれを別でやらない方がいい、というのは僕の持論である。「音高」や「音の長さ」は、音楽にとって、とても大事な要素である。そして、それが一体となったものが「メロディ」である。そこに「歌詞」がついて、歌い手の「こころ」が乗る。これが「歌」である。「合唱」の醍醐味は、みんなで「同じこと」に取り組んで、「同じ空間」で「呼吸」や「こころ」を合わせることであろう。そこには、生きていく上で、最も重要な「社会性」が必要となる。それを僕は「やさしさ」と捉えている。「こころ」と「こころ」が結び合う時、僕たちは最高の喜びを感じることができるのだ。

 ・・・僕が彼らに、一体何を教えてきたのか。・・・それは正しい「腹式呼吸」だったのではなかったかと思う。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

中河原こども園「音楽で遊ぼう」・1

 昨年の話になるが、知り合いに園児の歌の指導を頼まれた。その方は、群馬県の「中河原こども園」で、園長をしている。合唱の発表会が近ので、クラスごとに歌の歌い方を教えてほしい、というものである。年少・年中・年長の3クラス。

 ・・・正直、困った・・・と思った。僕は大学を卒業したての頃、一般の中学校や高校で音楽の教師をしていたことがある。けれども、幼稚園となると、別の話である。僕は幼児教育の専門家ではないし、自分に子どもがいるわけでもない。いくら歌と言っても、園児に教えるというのは、全く想像もつかない話である。園児に接したことのない僕にとって、園児はほとんど宇宙人に等しい。なぜ、園長は僕に頼んだのだろう・・・。もっと適任がいるはずである。疑問が疑問を呼び、疑問だらけになってしまった。そもそも、園児とは、どのくらいの背丈なのか・・・、どのくらい正しく歌えるのか・・・、どのくらい話が伝わるのか・・・、ちゃんとじっとしていられるのか・・・、など。そして何よりも、どのくらい歌に対して興味を持っているのか・・・、という「教える」「教わる」にとって重要なことがある。興味のない人に教えるほど、辛いものはないからである。

 

 学校で教師をしていた時、痛烈に感じていたことは、いわゆる一般の中学や高校には、音楽に対して「興味を持っている子ども」と、「興味を持っていない子ども」とがいる、ということであった。僕は普段、合唱団や個人レッスンなど、音楽の現場で仕事をしている。すると、当然のこととして、そこには、音楽に「興味を持っている人」しかいない。なぜなら、興味を持っているから、そこに来るからである。だから、僕は、音楽に「興味を持っていない人」を想像することが、実はとても難しい。しかし、音楽を専門としていない一般の学校では、そういうことが当然ありえるのである。

 ・・・「興味」と言っても、一概に述べることができない。例えば、「得意」とか「不得意」とかある。「好き」「嫌い」。「出来る」「出来ない」。「分かる」「分からない」。「感じる」「感じない」。「経験がある」「経験がない」。いろいろなレベルによって、「興味」の種類が異なってくる。また、これらの組み合わせ方もある。「出来る」けど「嫌い」もあるし、「分からない」けど「好き」もある。また、「歌」は好きだが、「リコーダー」は嫌いとか、「聴く」のは好きだけど、「歌う」のは嫌いもある。ジャンルにおいても、「ポップス」は分かるけど、「クラシック」は分からないなど・・・。その人によって、「興味」の種類、度合い、取り組み方など、さまざまである。

 このように考えると、一般の学校における音楽教師の立場として、これら音楽に対する「興味」が異なるすべての生徒に対応することは、とても難しいように思われた。「興味がある」、もしくは「好き」ということが前提になければ、「教える」「教わる」を成立させることは、なかなか難しい。特に「歌」は、「自ら声を発する」という、とてつもない労力が必要なので、モチベーションが低い場合には、とても難しい行為なのだ。僕自身、音楽の授業では、そうしたことをあまり感じたことがなかったが、例えば、体育の授業は、それを感じたことが多かった。水泳やマラソンなどは、並ばされて強制的にスタートさせられてしまう。竹刀を持った威圧的な体育の先生が、笛を吹く。すると、一斉にスタートしなければならない。・・・これが、僕は嫌でたまらなかった。そもそも、水泳やマラソンは、「不得意」で「嫌い」なのだ。その上、教師の威圧感よる強制がはなはだしかったせいで、余計に嫌いになった。だから、僕は、水泳やマラソンの授業は、仮病を使い、ほとんど見学していた。・・・けれど、もし、「歌う」ことが嫌いな生徒がいたら、これと同じことになってしまうだろう。先生がピアノで前奏を弾いたら、強制的に歌い出さないとならないのである。

 学校の授業という場では、このようなことが多く見られる。だからと言って、個人の自由を尊重し過ぎても良くない。だから、教師は、こうした問題を見なかったことにして、一律に教えるしか方法がないだろう。どちらかと言えば、「興味を持っている子ども」を対象に教える方に基準を合わせるのが、教師とすると楽である。・・・でも、大学を卒業したての僕は、せっかく教えるのだから・・・と、意気込んでいた。クラス全員に、音楽に「興味」を持ってほしいと思うし、出来ることなら、みんなに音楽を「好き」になってほしいと思っていた。・・・所詮、そんなことは無理なのだろうが、これが僕の性分なのである。とにかく、同じ教室にいて、「落ちこぼれ」の生徒を作りたくない、という想いである。誰一人として、「分からない」「出来ない」という悲しい思いをしてもらいたくないのだ。・・・けれど、実際は、全く上手くいかなかった。人にものを教えるには、あまりにも経験不足であった。

 

 僕がこのように思うようになったのは、高校時代の苦い経験からくる。

 僕は小さい時から、比較的、優秀な方だった。勉強も、運動も、もちろん芸術も・・・。勉強のことで言えば、学校の授業中、先生の言うことがよく理解できたので、家に帰って、特別に勉強し直す必要がなかった。だから、塾も行ったことがなかったし、テスト勉強も頑張らなくて良かった。高校入学までは、それで問題なかった。けれど、高校の入学時に転機が訪れた。これまでのやり方では、授業の進行に全くついていけなくなってしまったのである。

 高校に入学する前に、高校から課題がたくさん出された。僕はのんびりしていて、それをやっていなかった。これが、そもそもの失敗である。そして、はじめての数学の授業の時、先生は、それを踏まえた上で、授業を開始した。教科書を1ページも開かなかった。先生は黒板で簡単に基礎を説明しただけで、いきなり応用問題を解きはじめた。僕はすっかり面食らってしまった。先生のはじめの説明が全く理解できなかったのに、授業が先に進んでしまったからだ。学年主任であった担任の平野英治先生は、数学における新たな教育システムを考案し、「目指せ!東大!」を掲げていた。平野先生の決め台詞——「俺の目を見ろ!何にも言うな!黙って俺について来い!」・・・僕は、この男子校ならではの威圧的・体育会的な雰囲気に、全く馴染むことができなかった。先生の目を見て、授業をしっかり聞いていたのに、ついて行くことができなかった。先生の話を理解することができなかった。・・・人生初の挫折だった。数学で出鼻を挫かれた僕は、他の科目でも、先生の話を聞く姿勢を完全に失ってしまった。

 しかし、これを先生のせいにしてはいけない。僕が勉強しなかったのが悪い。しかしながら、少し弁明をすると、そもそも、僕には家で勉強する習慣がなかったので、どのように勉強したらいいのかが、正直、分からなかったのである。僕にとって勉強とは、授業中に先生の話を聞いて理解する、ということだったのだから、後で・・・というわけにはいかなかったのである。・・・けれども、この勉強での挫折感が、その後の僕にとって、とても重要な役割を果たすことになる。青春の全精力を、勉強にではなく、音楽へと向けることができたからである。平野先生のもとでの「目指せ!東大!」は、高校2年生の秋から、音楽の茂木信義先生のもとでの「目指せ!芸大!」へと変わった。

 

 ・・・このような経験から、僕は人前で話す時、なるべく全員に話の内容が伝わるように気をつけるようにしている。人の話を聞いていて「分からない」というのは、とても悲しいことである。そのために、「好き」なことであっても、「嫌い」になってしまうこともある。それはとても残念なことだ。

 多くの場合、先生をしている人は、はじめから、そのものが、どちらかと言うと「好き」だったはずだし、どちらかと言うと「得意」だったはずである。だからこそ、専門的に勉強を積み、専門家として生徒に教えているのだろう。そのように考えると、生徒の抱える「分からない」「出来ない」「嫌い」ということが、本当の意味で理解できないことが多いのではないかと思う。そうであるならば、逆に「分からない」「出来ない」「嫌い」からスタートして、努力して「分かる」「出来る」「好き」になった教師であれば、その克服の経験を生徒に伝えられるのではないかとも思う。そうした道を、生徒と一緒に辿ることが、教育にとって、とても重要なのではないだろうか・・・。

 

 つまり僕は、歌の指導を頼まれた幼稚園においても、このように考えてしまったのである。「分からない」のは悲しい。では、みんなが分かるように・・・。けれども、僕には園児を教える経験がないので、本当に困った・・・ということになってしまった。そもそも、みんなのことを、僕が分からない・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

ミュージカル「ナディーヌ」公演にご支援を!

 

 今年6月22日(土)と23日(日)に、群馬県高崎市新町にある高崎市新町文化ホールで、「新町歌劇団」が、ミュージカル《ナディーヌ》(原作・脚本・作曲:三澤洋史)を公演します。

 

 「新町歌劇団」は、群馬県内一面積が小さかった自治体、旧多野郡新町(現・高崎市新町)の公民館で、1986年(昭和61年)に生まれた小さな歌劇団です。この小さな町、新町出身の三澤洋史先生が、ベルリン留学から帰ってきた時に、「地域のために音楽を」と、合唱を指導をしたことからはじまりました。38年の間には、さまざまな公演を行ってきましたが、特に、三澤洋史先生による創作ミュージカルは、活動の軸となってきました。

 地元の民話を元としたミュージカル《おにころ》(原作:野村たかあき、脚本・作曲:三澤洋史)(1991年 初演)、イエス・キリストとマグダラのマリアを描いたミュージカル《愛はてしなく》(脚本・作曲:三澤洋史)(1995年 初演)、そして、今回公演するパリを舞台としたミュージカル《ナディーヌ》(原作・脚本・作曲:三澤洋史)(2004年 新町 初演)です。

 

 ミュージカル《ナディーヌ》は、三澤先生が奥さまと過ごしたパリ・モンマルトルでの大切な思い出が、発想の原点となっているそうです。パリの広告代理店に務めるさえない中年男ピエールと、夕暮れの街角で突如現れた不思議な少女ナディーヌの恋物語です。ナディーヌは花の妖精で、妖精の国「フェアリーランド」の女王となる妖精です。亡き父の後、国を継ぐために、人間界に送られることとなりました。もし、人間界で「かけがえのないもの」を得ることができたら、妖精界で最高の女王になることができるといいます。物語は、ナディーヌが心配でフェアリーランドから追ってきたIQ500の天才博士ドクタータンタンや、召使いのオリー、また、国王の座を狙っているニングルマーチなどが登場し、奇想天外な方向に進んでいきます。はたして、ふたりの恋の行方は・・・。

 

 僕は、IQ500の天才博士ドクタータンタンを演じます。この妖精は、犬の姿をしています。三澤先生が飼っておられたミニチュアダックスフンドからこの役は生まれました。この役を作るのに、ありがたいことに、三澤先生は僕をイメージして作られたそうです。ですので、僕にしかできない役です。初演(2004年)と、再演(2016年・聖学院講堂)で演じさせていただきました。

 初演は、2ヶ所で行われました。ひとつは、くにたち市民芸術小ホールで、2004年7月31日と8月1日に行われました。これは、2003年10月から開始した、くにたち市民芸術小ホールの「ワークショップ」の本公演として開催されました。僕はこのワークショップの指導を三澤先生から任され、合唱メンバーと共に、この舞台を作り上げました。そして、もうひとつが、新町文化ホールで、2004年8月21日と22日に行われたのが「新町歌劇団」による公演です。8月22日は僕の誕生日です。サプライズで打ち上げ会場でお祝いしていただいたのをよく覚えています。

 ・・・このふたつの初演は、僕にとって忘れられないものです。なぜなら、父が亡くなったのが、公演直前の2004年5月31日でした。僕は悲しみの中で稽古し、本番を迎えました。・・・普段、僕の本番をあまり観にこられない兄が国立に来てくれて、公演後、しみじみと良かったと言っていました。母や姉は、父の遺影を持って、新町に観にきてくれました。父にも観てほしかった舞台です・・・。僕たち家族のかけがえのない父の存在が、この作品には残っているような気がします・・・。

 しかしながら、この舞台がご縁となって、僕は「新町歌劇団」にて、ミュージカル《おにころ》の伝平役(2006年・2012年・2015年・2017年・2021年)、ミュージカル《愛はてしなく》のイエス・キリスト役(2008年)、地球オペラ《ノアの方舟》の宇宙人役(2009年)など、僕にしか演じられない「キャラクターもの」で出演させていただいています。また、2017年の群馬音楽センターでのミュージカル《おにころ》では、「おにころ合唱団」(公募)を指導させていただき、そして、2021年12月からは、副指揮者として「新町歌劇団」の指導をさせていただいています。

 歌劇団のメンバーと作り上げるミュージカル《ナディーヌ》、とても楽しみです。

 

 少し話が長くなりましたが、今回のミュージカル《ナディーヌ》公演では、クラウドファンディングで、公演費用を支援していただきたく、皆さまにお願いしています。

 既に、2024年2月20日(火)10:00より支援募集期間がスタートしており、終了が2024年3月29日23:00までとなっています。

 今回の公演では、約350万円の予算を計上していますが、どうしても、収入との差額が50万円出てしまいます。そこで、この不足分を、クラウドファンディングを活用させていただき、皆さまに支援していただけないかと募集させていただいております。「3,000円 お気持ちコース」「10,000円 応援プラン」「30,000円 応援プラン」「50,000円 応援プラン」「100,000円 応援プラン」などがあります。是非、少額でもご支援賜りますと幸いです。

 下記のURLから入っていただき、ご協力、よろしくお願いいたします。

 

■公演の概要

【日時】2024年6月22日(土)開演18:30、23日(日)開演13:30

【会場】高崎市新町文化ホール

【演目】ミュージカル《ナディーヌ》(原作・脚本・作曲:三澤洋史)

【出演】三澤洋史(指揮・演出)、込山由貴子(ナディーヌ)、山本萌(ピエール)、初谷敬史(ドクタータンタン)、大森いちえい(オリー)、秋元健(ニングルマーチ)、新町歌劇団(合唱)、群馬県のこどもたち(グノーム)、小林直子(ピアノ)、長谷川幹人(エレクトーン)

【チケット料金】全席自由 大人3,000円、小人(中学生まで)2,000円

【主催】新町歌劇団

【後援】高崎市、上毛新聞社

 

■クラウドファンディングのページ(↓こちらをクリックしてください。)

https://readyfor.jp/projects/nadine

 

■新町歌劇団のページ(参考)

https://nei065.wixsite.com/sinmachi-kagekidan

 

■三澤洋史先生のホームページ(参考)

https://cafemdr.org/index.html

 

by.初谷敬史

新全日本都道府県歌再興委員会・第16弾!

 しばらく「新全日本都道府県歌再興委員会」の動画宣伝をアップできていませんでしたが、1月に「茨城県民の歌」と「埼玉県歌」をアップしたことにより、関東1都6県の都道府県歌の再興シリーズが完成しました。アップした順にご紹介します。

 なかなか制作が進みませんでしたが、4年がかりで完成した力作たちです。もともと、「新全日本都道府県歌再興委員会」は、新型コロナウイルスの感染拡大防止に伴って活動を自粛したプロのアーティストを支援する東京都の助成事業「アートにエールを!東京プロジェクト」に出展した作品が、たまたま「東京都歌」であったために、はじまった活動でした。はじめは、何も深い意味は感じていませんでしたが、このように作品を制作し、発表してくると、政治、経済、文化、歴史、自然・・・といった、それぞれの地域のさまざまな特色が、改めて浮き上がってくるように感じます。もちろん、そこには人がいて、そこの風土と共に、生活していく全てを、次の人に繋いできた、長い、長い、時間と、深い、深い、愛と、言葉では言い尽くせぬ大変な苦労とがあるのです。

 三人の住む「東京都」、会長はっつんの故郷「栃木県」、再興長まっつんの住む「千葉県」、委員長クロちゃんの故郷「埼玉県」・・・。まず、近場の関東から固めていこうと、最近、急ピッチで進めてきました。しかしながら、今後、その他の地域をどのように制作していくのか、全く見当もついていないですが、そのようなチャンスに恵まれることを願って、気長に活動して行こうと思います。

 

2021年2月10日公開

◆作曲家が編曲して浄書家が浄書して声楽家と歌う東京都歌

https://www.youtube.com/watch?v=xqNWqXe0U_Q

 

2021年6月16日公開

◆【再興】神奈川県民歌「光あらたに」をしっとりアレンジで歌ってみた

https://www.youtube.com/watch?v=4tTeSIVLaT0

 

2022年3月15日公開

◆【再興】群馬県の歌

https://www.youtube.com/watch?v=nzLLmFHJndU

 

2023年9月4日公開

◆【再興】栃木「県民の歌」🍓

https://www.youtube.com/watch?v=pYMfc9EhMuo

 

2023年10月20日公開

◆【再興】千葉県民歌🥜

https://www.youtube.com/watch?v=6IuCvFMeCO8

 

2024年1月2日公開

◆【再興】茨城県民の歌

https://www.youtube.com/watch?v=ZvQ8omXtEUM

 

2024年1月26日公開

◆埼玉県歌

https://www.youtube.com/watch?v=t71k9hxkYZA

 

by.初谷敬史