hatamarog
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あけまして。




・初日の出というわけではなく、

1月2日の初日の出を拝んだ。

暗闇の中の先に見える(ぼくは、暗闇にいる。)

新しい、光を望み、

新年の気持ちを確認してみるけれど、

ちょっと、「新しい朝が来た♫」

のラジオ体操のフレーズが離れなかったりして。

と、そんな朝。

新年、明けましておめでとうございます!!



・家族と旅行するということは、家族について考える時間でもある。

年々、衰えていく両親や、両親の気持ちを考え、

また、家族をもつということにも、考えさせられる時間でもある。

じぶんの、幼い頃の話を聴き、そして、また、

育ててもらったんだなぁ、という感謝の気持ち。

いろんな人が、いろんなことをいっていったけれど、

あるいは、いろんな人と知り合ったり、酒を酌み交わしたけれども。

結局、最後は、「家族」という単位に、

人は、戻るのだ。

と、新年は感じます。
(年賀状のやりとりは、多少あったとしても。)



・「家族」から生まれ、すこし、「家族」から離れる時期があって、

新しき人も加わわることもありながら、

「家族」という単位に戻る。

たぶん、その気持ちは、追体験的なものとなるのであろうか?

家族とはいえ、わかりあえない部分もあるという、

人という孤独を、抱えながらも、

それこそが、人ということの悲しさなのかなぁ、と思いつつも、

でも、それでも、だからこそ、家族はいいものだと、

ほんとうに、思う。



・今年の正月はなんとなく、「人工知能」の本を読んでいました。

ロボットとか、ワクワクするし、

おそらく、人工知能ができれば、世界は劇的にかわるんだけれど、怖い部分もあります。

その時に、「人間」であること、

ということの、大切な部分や、弱い部分をあらためて、

ぼくらは、認識するのではないかなぁ、と思いました。



新年から、重い話題で失礼。

もちろん、お腹も思ひ出す。。

新しい足音。




・昨日、ひさしぶりに友人と、飲み明かしたのだけれど、

良き刺激をうけたなぁ、と思う。

友人の進む、あたらしい道と、ぼくの求めてる、あるべき道が、

微妙に、リンクしていたからかもしれない。



・ぼくは、誰かのお役にたてること、それがエネルギーになる。

ぼくの喜びは、だれかの役に立って、その人が、少しでも、HAPPYになることだ。

日々、仕事の中で、行き詰まり、このままで良いのだろうか?

そう考えていた。

そういう部分で、有言実行を期するために、

あえて、書きませんが、

いろいろと、具体性をもって、

ぼくも、考えていることがいくつかあります。

その辺の、ところを、手帳に具体的に書いて、熟慮した次第。

すべてのタイミングが整い、環境が整うまで、

準備をしていきます。。

人生は、一度きりですからね。



・ぼくの、ロールモデルはいくつかありますが、

糸井重里さん、村上春樹さん、任天堂の故岩田社長、河合隼雄さん、

かなぁ、と思います。

多くのことを学んだし、とてつもなく大きな存在だけれど、

ああ、なりたい、と思う存在なのです。

いろんなことを、学び、成長して、

新たな要素を、取り入れて進化していきたい。



新しい、足音を、2016年は、残したい。


そういう、強い気持ちがあります。



・2015年を追えるにあたって、おもったのですが、

2016年は、再出発の年かなぁという、感触を手帳に書いていて、

思いました。

すごく、不安な気持ちもある反面、

あぁ、新しい息吹を、取り入れられる、

春のような、そんなピンク色の世界。

そこは、厳しいながらも、どんな魚よりも、新鮮な彩りでいっぱいな気がする。

そんな、年にしたいと思います。



・去年は、反省も山ほどあります。

かなしいこと、つらいこと、もありました。

けれど、前へ進むしかないのだから、新しい、足音を刻んでいけるように。



今年も、みなさん、お世話になりました。

よい、お年をお迎えください!!


元日から、旅行にでかけます。

充電します。。

忘れ得ぬ人。




・なくなった人を、思い出すのは、

ぼくの場合、定期的に訪れる。

・さよならを、きちんと言えずに、去ってしまったともだちも、いたし、

きちんと、お別れをいえた形で、さよならができた人もいる。



・それ以来、ぼくは一期一会が、いかに、大切なのかがわかった気がする。

そして、去ってしまった人に対しては、忘れない、

それが、大切なことだとも、学んだ。



ぼくは、継続性のない、人間である。

いいかげんで、頭の整理、整頓ができず、不器用で、運転も、下手だ。



・ただ、まぁ、この15年ね、

わすれずに、ある友人の、

命日には、実家に伺うと決めたことは、なんとか、

守られたことは、ホッとしています。



・人の死というものは、とてもとても、大きな事だし、

それだけ、いろんなことを残された人は、考えるのだけれど、

そこから、また、その人のいない世界で、生きていかなければならない。

そして、また、その人を、忘れないで生きていくこと。

まぁ、なんとかね、それが守られた、生きてこれたことは、

ホッとしています、、、大変だった、正直。

いろいろ、あったけれど。。(用は、彼のいない世界が、ほんとうにしんどかった。)



だから、もし、1回ぐらい命日をわすれても、

あいつだったら、許してくれるかも、なんて、

夢の中で、笑いながらね。

そんなことを考えると、

すこし、笑ってしまう時があります。


同時にね、まぁ、しっかりしなきゃね、

と思います。

彼が残した、弱者への優しさ。

その、あたたかみを大切にして。
(そして、ぼくには、去年なくなった、叔父のあたたかみも残っている)



考えると、なくなった人が残してくれたものは、

すごく大きなもので、やっぱり、ぼくは、

忘れる事は、できないんだろうなぁ(笑

と年の瀬にあらためて思います。

でも、残してくれたものって、形はないけれど、

すごく、温かみがあり、勇気付けられる、

思い出や、教えてくれた事ばかりなんです。

思い出は、ほんとうに重いで、ですよね。


忙しい中、読んでくださってありがとうございます。

年末の訃報で、いろいろ考えた。

小分けされたケーキ。




・わりに、前々からやってみたいなぁ、こうなればいいなぁ、

と思うのは、とても好きです。

思うだけならば、タダです。

宝くじのように、そういう思う気持ちを、もってることは、

豊かだなぁ、と思います。



・実現を考えている人は、ぼくは思うのですが

余計なものをそぎ落とし、コストや、

いまのじぶんの実力を考え、

夢を小さく、小さく、小分けして切っていると思います。

まずは、大きなケーキを食べたいと思うならば、

丸いケーキを切って、三角の、小さくケーキみたいに。

そういう、小分けされた夢は、さらに素敵だなぁと思います。

それが、「アイデア」なのかなぁと個人的には思っています。

ぼくも、理念とか、そういう部分からはいっていくことが多いので、

反省するんですが、ぼくは、そういうのが話したり、聴くのが好きなようです。



・小さく小分けされた夢って、ささやかで、あたたくて、

いいですよね、そして、厳しさや覚悟も感じます。

ポケットに、忍ばせておいて、

日々、いいなぁとおもいながら準備する、

そういうの好きだなぁ。



・ぼく自身でいえば、やっと、小分けはされてきたのですが、

小さいケーキが溜まってきて、頭のなかの整理が必要かなぁと思います。

小分けされたなかを、取捨選択するしかないようです。

当然、コストをかんがえると、

じぶんの体は1つです。

お金もコストです。

日々の業務もあります。

失うものも、あるでしょう。

そこを、うまく選べると、いいなぁ、なんて思います。

小さく切って、どれを食べるか選ぶ。

子供の頃のクリスマスケーキみたいなものですね。



でも、ぼくは、小さいながらも、
変化して、新しいものを取り入れたい、そう思っています。
(飽きっぽいのは、反省しています。)

交差点。




・たばこを、今年の8月1日からやめて、

4ヶ月たとうとしています。

まだ、まだ、なれない禁煙席にいくのは、

自分の変化に、追いついていないのだろうかとも、思っています。

禁煙外来の力を、かりたのですが、

以外とあっさりしたものでした。



・メリットは、かぞえきれないほどありますが、

それ以上に、喫煙している人の、うらやましいな、

という気持ちや、(おいしさを、忘れていないわけではないから。)

いや、もう、あんな面倒臭いことは嫌だなぁ、

という気持ちがあります。

まるで、若い頃のバカなことを思い出すように。



・別に、昔は、わるかったんだよ、

という人が武勇伝をかたることは、ぼくはあまり好きではありません。

でも、喫煙者と、非喫煙者であること、どちらも経験していることは、

まぁ、プラスかなぁと思っています。

ぼくは、何事も、交差点という場所がすきです。

じぶんの本質も、本籍「文系」住所「理系」、文系と理系の交差点です。

じぶんは、ある病気の患者であり、また、患者さんに関わる仕事を、しています。

そして、ヘビースモーカーから、吸わない人。




・交差点ってところは、豊かだなぁって感じるんですよね。

今の時期ならば、クリスマスカラーの赤と緑の彩りのように。

今の世の中、右説か左説か、そういう部分が多くて、

そこには、交差点はないのかなって、思うこともあります。

面白みがないですよねぇ。

喫煙者は迷惑をかけるなぁって、実感としてあるのだけれど、
(そして、世間的な流れも、厳しい。)

いや、あの一服はうまいんだよねぇ、確かにという、じぶんもいたことを、

忘れたくないです。

両方の気持ちが、わかるということ、

いろんな交差点にいること、それは、これからも

ぼくは、こころがけたいなぁと思っています。



写真は、信州のコシナ社、レンズ:NOKTON 25mm F0.95
(すごく明るいレンズです。深夜の写真)
星景写真は、まだまだですが、オリオン座を撮りました。

みどり。



母とグリーンショップというのかな、

いくつか、観葉植物を買ってきました。

母が、ふといった言葉、

「緑であれば、生き生きとした生命力がある緑がいい。元気がもらえる。」

なにか、病気をしてからの母の想いを感じた。



緑は、なぜ、心おちつくのだろう?

そう、考えた時、

やはり、母の言うように、

植物の、日光を浴び、水をもらい、

伸びていく、その、生命力が、ぼくらに、

力をくれる、そんな色だからだ。

そして、また、母も病気をして、よりいっそう、

緑に、元気をもらうことがあるのではないかなと想像します。

人間は、まぁ、元気をとられる、つまらないことも、

なきしにもあらずだから。




いつだったか、頓挫しましたが、

薬局を、緑あふれる薬局にしたいと考えていました

(ですが、お手入れも大変で。)

落ち着いたら、また、薬局の待合も、

緑あふれる形にしたいと思います。

病というものを、あるいは、いろんな悲しみを、

支えきれないくらい、背負っている時、

緑、生きることを感じる緑。

そういうものが、ぼくらに、ささやかながら、

生きる力をあたえてくれる。

それは、ほんとうに、生命力の分け合いなのかな。


なにかの歌ではないけれど、道路の雑草でも、

一輪の花でも、

生きるという、意欲は湧いてくるのかもしれない。

それは、言葉だけでなく、見えないものとして。



生きることは、いろんなものから、もらうものなのだなぁ。


ひさびさに、綴ってみました。

ショウガない、ジンジャエールについて。

しょうがない、ことに、対して、

責めたり、ちゃかしたりする人が、いる。

しょうが、ないことは、ほんとうに、しょうがない。
(しょうがの、入っていない、ジンジャエールを、出されることは、
しょうが、ないことではあるが、意味が幾分ちがうけれど。)



たとえばだが、ぼくらの世代であれば、頭髪の問題は大きいけれど、

でも、それで、本人にどうにかなることか、というと、

これは、しょうがないことですよね?ということ。

それで、ちゃかすのは、お門違いだと、ぼくは、思うんですよね。



「もののあはれ」では、ないけれど、

ある意味、本当に、生まれとか、国籍とか、毛が濃いとか、薄いとか、

病気があったり、体が弱かったり、

だって、しょうが、ないじゃない。





ある友人の黒猫の話をしよう。
(ぼくは、個人的に黒猫は、好きですよ。)

ーあるところに、黒猫がいたそうな。

黒猫は、もっと、愛嬌のある柄に生まれたかった。

他の猫に、それをからかわれた!!

母猫に、黒猫は聞く、「ちがう、模様にかえたい。」

母猫はいう、「それは、かえられないのよ。私は、生まれてきてくれたことうれしいよ。

その、黒は、あなたが、あなたである証で、両親からもらったギフトなんだよ。」

そうか、黒猫は思う。

この、黒は、大切なものなのだ。

黒猫は、その黒を誇りに思った。

ありのままで生きよう、じぶんなのだ、だれがなんと言おうと。



黒猫は、その、しょうが、ない部分も、

受け入れて、生きてくんだし、まわりも、それを受け入れる要素を、もたなければ。

でも、うけいれられない人が、いたら、

それは、しょうが、ないニャーとなりますよね。

人生は、しようが、ないで、ぼくは、満ちていると思います。

ぼくは、しょうが、ないことは、じぶんの中で受け入れていきたいし、

しょうが、ないことに、人生の渋みを、感じる時がある。
(このへんは、ビールをのみたくなります。)



しようが、なくない、ことも、あります。

ショウガの入っているジンジャエールが当然のように、あたりまえにあるように。

いっぱいある。

それは、責任をとらなければならないと、(ぼく自身も含めて)思います。

ただ、それは、それで、人間だからこその、間違いはあるし、

それは、当然のコストでもある。

それは、カギは、成長でもあるのかなぁ?



黒猫はいっている。

大きくなってから。

「人生には、2つのジンジャエールがある。

どちらも、意味が違うんだ。

ショウガがないジンジャエールと、

ショウガのあるジンジャエール。

どちらも、しんどいんだよね。


まぁ、ショウガのあるジンジャエールは、責任をもって飲んだけど。

ショウガのないジンジャエールは、別に、しょうがないんだもの。

じぶんで、それなりに考えたけど…、苦しんだけど、

まぁ、ショウガ、ないよね!!」


つまり、そういうことだと、
ぼくなりに、考えています。

冥王星。

・冥王星には、特別な思い入れがある。

太陽系には、実は、冥王星の大きさの天体が、たくさん、あるとのことで、

準惑星?に格下げされてしまったけれど、

いやはや、太陽系の最果ての惑星というと、

冥王星というのが、ぼくの、心の中にある。

小学校の頃、ボイジャー2号が、

海王星の観測を行った時も、ドキドキして、

生きているうちに、冥王星が見れたら、素敵だろうなぁ、

と思っていた。



・冥王星の姿に、ついては、

特徴が、科学的な、というのは、抜きにして、

やっと会いたかった、遠くの人に会えた、

そんな、実感がある。

ずっと、遠くから見ていて、どんな人なんだろう?どういう生活をしてるのだろう?

そんな、想像を、26年間していて、

あー、やっと会えた、こんにちは、

という感じかなぁ。

思えば、ぼくの、いいかげんな人生でも、

そういうことは、ありました。



・だから、ぼくは、想う、って大切なんだなぁ、

とは、つくづく、思うんですよね。

あー、こうなったら素敵だろうなぁ、と思っていて、

地道に、日々、がんばっていれば、

おのずと、求めていたものは来るかもしれない。

大切なのは、求めることなのかも、そして、待つことなのかもしれない、

探査機ニューホライズンの9年に渡る、冥王星の航海は、かかわった人々は、

そんな、9年間だったかもしれないですね。

小さな光が、長い間かけて、形になること。

形なきものが、形作ること。

そんなことを、冥王星をみて、想いにふけっていた。

まぁ、人生には、そういうのも、必要なのかもね。


・ちなみに、星座で見分けられるのは、オリオン座だけ。

ぼくは、この星をみるたび、

オリオン座星人(が、いたら。)地球では、この星の名前は、

ひなびた温泉で、ストリップ劇場の名前に使われていたんですよ。

と伝えたいです。

でも、地球も、遠くの星では、ストリップ劇場の名前に、使われてるかもしれないですね。


今日も、読んでくださってありがとうございます。

少々、体調が悪いです。

ほほえみ。

・たとえば、一輪の綺麗な花があって、

その花を手に入れるために、

周りの雑草を、踏みにじることがあったら、

それは、幸せなのだろうか?



・お互いが、幸せ。

自分だけが、あるいは、身内だけが、

Happyだとすれば、

そこで、泣いている人も、いるだろう。

いわば、内輪ネタにすぎない。

ぼくは、みんなが、Happyなのがいい。

みんなが、笑顔になることがいい。

それが、理想です。

だれかの、傷のもとに、得られる幸せは、

なにか、いびつな、肥大したハートだと思う。

そんな物語は、望んでいないし、

ぼくがみたい物語じゃない。




・仕事でも、それがいえるかもしれない。

わたしたちは、だれかが笑顔にHappyに少しでも、

なれることを、思って、

どんなこと仕事でも、していますよね。

利益は、条件ですが、それでも、

根底には、だれかを助けるならなんだってしちゃうよ!!

というスピリットが大切なのだと思う。

ぼくのしたことが、少しでも、だれかの助けになれば良いなぁ、

と思い、勉強しています。



・いわば、人は、人の笑顔を本来みたいんじゃないかな、

ほほえみを、たくさん、心の中に、

しまえた人って、やっぱり素敵だと思う。

ほほえみの収集家なのかも、だれもが。



・でも、そのほほえみは、心からの喜びであり、嬉しさであり、

けして、だれかをあざ笑う、悪口をいったりだとか、誰かの犠牲のもとにあったりだとか、

競争にかっただとか、そんな、毒入りのほほえみではいけないよ。

ぼくらが、ほしいのは、

真のほほえみだ、真の笑いだ。

たとえ、厳しく、つらいなかでも、

真冬のホットコーヒーの暖かさみたいな、

そういう、ほほえみを増やすように、誰かの役に立ちたい。

そういう、仕事ができたらと思います。

そして、大切な人に、そういうほほえみを、できたらいいですよねー。




今日も、読んでくださってありがとうございます。
生前の任天堂の岩田社長の、お話を思い出すと、
なんとなく、こんな文を書きたくなりました。
(ぼくの、こうなりたい!!と思う憧れの人でした。)
心から、ご冥福をお祈りします。

たまに、銭湯でも行こう。

高校時代、槙原敬之さんの世界が大好きでした。

イノセントで、繊細な、

ぼく、の世界。

そこには、美しい世界が(あるいは、現実的にはありえない)

パステル画のようなスケッチで、描かれていて、

ぼくは、恋愛の素晴らしさ、愛することの美しさに、

歌を通して、感激していました。



その中で、銭湯にいくと、

大変なのは、みんな、そうなんだぁ、

銭湯いかなきゃなぁ、という歌詞があって、

当時は、なんだろう?と思っていました。



でもね、最近、男湯にはいると、

同じような、中年、青年が、もう、

裸で、無防備で、

着ぐるみをはがした、マスコットみたいに、

まるで、「酢」をたくさん飲んだみたいに、

「素」の姿を見せているんですよね。

いいなぁ、ってふと、思った。。


あー、みんな、それぞれ、必死で人生を生きているんだ、

だから、みんな、温泉はいって、

癒している、

まさに、ぼくも、がんばらねばなぁ、

と歌のように思いながら、その時は、

一つの発見したみたいに、(どうでもいいことですが。)

鼻歌、歌いながら、体、洗ったんだけどね。

ふだん、自分と戦闘してるから、銭湯にいくのかなぁ、

なんて思ったり。



だから、たまには、大きな温泉で、

ゆったりするのは、数多くの勉強や、誰かの意見より、

自分のことが、わかるんじゃないか、

というのが、ぼくの個人的な意見です。

たぶん、槙原さんは、それがいいいたかったのかなと、

想像します。



というわけで、みなさん、

ぜひ、松本市浅間温泉へきてください。

しなびてるけど、

すごく、じぶんの心の洗濯ができますよ♪
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