日本史で大きな謎とされる年が1555年である。
この年に全国的な規模で何かが起こったという記録はない。しかし、北は津軽為信から南は島津貴久に至るまで、全国四十名にも及ぶ大名が、一斉に天下盗りへ立ち上がったのである。
『信長公記』にも
「織田信長の夢はただひとつ
天下統一!
四十に及ぶ国を手中にした時
天下は信長の物になるのだ!」
という有名な書き出しが見られるが、この年が1555年であった。
そして紀伊の大名、雑賀孫一も同じく天下を目指していた。
1555年、各国は戦乱に包まれていた。すでに肥後の国の大名、阿蘇惟将が大友宗麟によって討ち滅ぼされ、また出雲に攻め入った大内義長は討ち死にし、家臣の陶晴賢が領地を継いでいた。だが孫一は思案に暮れていた。孫一に家臣はなく、兵もわずかに四千ほど。
と、その時、物見に出した斥候から報告が入った。
「殿、伊勢の北畠具教が、美濃の斎藤道三に攻め込まれましたぞ」
孫一の目標が決まった。敵、北畠の兵も同じく四千。戦闘に優れた紀伊の兵なら、よもや敗れる事はあるまい。
予想通り、野戦は勝利を収めたものの、篭城されてしまい、伊勢を落とす事はできなかった。
この年の暮れ、北畠との合戦で二千に減った兵を五千まで増強する。
翌1556年、孫一は五千兵を率いて、再び伊勢へ攻め込んだ。これに対して北畠軍はわずか一千兵だったため奇襲に命運を賭けたが孫一に見破られて敗走。篭城するも城が陥落して討ち死にした。次に孫一は大和の筒井藤勝を攻めたが、篭城に遭い、ほとんど打撃を与えられなかった。
他国の情勢では、浅井、朝倉から攻められ続けた山城の松永久秀が、ついに和泉の三好長慶によって攻め滅ぼされた。
1557年になった。合戦の連続で、雑賀の軍資金が枯渇してくる。そのため、孫一は攻撃を一時中断して国造りに力を注いだ。その一方で、孫一は長期的な戦略を立てた。この乱世を生き残るのは、東は北条、西は島津というところか……。天下統一のためには、このいずれかを早めにたたかねばならぬ。
そんな時、願っても無い使者がやって来た。北条家からの縁組の申し込みだ。
(よし。当家はまず西へ進む)
孫一はこの申し出を快く受諾した。
1558年。一年掛けて行った国造りが成果をあげ、紀伊は40万石、伊勢は72万石まで石高があがった。孫一は百万石の大名となったのだ。
が、この年の徴税で思わぬ事態が勃発した。伊勢の農民が一揆を起こしたのだ。
「殿様に、お天下様をとってもらいてえと、これまでガマンしてたが、もう限界だ」
「こう毎年毎年つらい年貢を掛けられちゃ、おらたちは餓死するしかねえだ」
孫一は戦闘には長けた武将であったが、内政はからきし苦手だった。
「誰か、まつりごとに秀でた家臣を雇わねば……」
これが目下の雑賀家の最大の課題となった。孫一は全国に物見を遣わせた。
「薩摩の国に、羽柴秀吉なる武将がおりました」
「但馬に細川幽斎殿がおられました」
しかし、秀吉も幽斎も雑賀家への仕官を拒否してきた。どうも雑賀家は魅力に欠けるようだ。
その時、
「下野の宇都宮家に明智光秀なる家臣がおりますが、どうも俸禄に不満を持っているようです」
という報告が入る。
「よし。光秀を引き抜けい。俸禄は望み通り与えよ」
最高額の俸禄を提示すると、明智光秀は雑賀家に仕えた。光秀の政治力はずば抜けて秀でていた。一揆が起きた伊勢の国を、わずか14金で元の国力に回復したのである。
1559年。孫一と光秀が伊勢の城で軍議を開いていた。
と、その時、
「と、殿! 筒井軍七千が紀伊へ攻め込んで参りました!」
「なんじゃと。小賢しい奴じゃ。空き家の紀伊を狙うとは。返り討ちにしてくれよう」
孫一一万五千、光秀三千の兵を率いて紀伊へ戻る。
「殿、ここははさみ討ちが上策かと存じます。それがしが別働隊となりましょう」
と進言して光秀が敵軍の後方へと回り込む。この作戦は大成功だった。筒井軍は一兵も残さずに打ち取られ、大将だけが辛くも退却した。
「殿、愚考つかまつりますが、ただいまの合戦において筒井軍は全兵を失いました。今大和へ攻め入れば、敵に反撃の術はございません」
「では一気に攻め込もうぞ」
「殿がご出陣する必要はございませぬ。この光秀一人で十分でございます」
この年、明智光秀は合計三度、大和へ出兵した。兵が欠けた筒井藤勝は篭城して対抗したが、三度めの兵糧攻めでついに根を上げ、落城した。
紀伊、伊勢、大和と畿内三国を領有した事で雑賀家の威信も上がったのか、この年、初めて向こうから仕官希望者が現れた。
「拙者、池田恒興と申します。どうか雑賀家の末席にお加えくだされ」
「光秀、いかがいたそう」
「池田殿なら申し分ありますまい。必ずや殿のお役に立つと存じます」
1560年。雑賀軍は光秀を総大将、恒興を後詰めとして山城を攻めた。しかし和泉から三好の援軍が駆けつけ、一進一退の攻防の末、雑賀軍は敗れた。
「申し訳ござりませぬ。この光秀の不覚でございました。なんなりとご処断を」
「まあよい。確かに我が軍は五千兵を失ったが、三好も同じく五千兵を失ったではないか。そこを浅井長政に突かれて、山城は浅井家の領地となった。漁夫の利を得た浅井は小癪だが、いずれは浅井も討ち滅ぼす敵。しばらく山城を預けておくと思えば良いわ」
「恐悦至極に存じます。ところで本年も仕官希望者が参っております。母里友信にございます」
「母里友信? あまり聞かん名じゃが」
「通称母里太兵衛。あの豪傑、福島正則から名槍日本丸を飲み取った豪傑にございます」
「それは面白い。家臣としようぞ」
こうして雑賀家の家臣は三人に増えた。
1661年になった。この年の標的は、浅井との合戦で疲弊して和泉一国となった三好長慶だ。兵力に劣る三好が篭城してくるのは目に見えていたので、孫一は自ら出陣することなく、兵糧攻めが得意な光秀を総大将とした。三度の攻城戦の末、和泉は雑賀家の手に落ちた。
「殿、お慶びくだされ」
「和泉征圧、ご苦労であった」
「にはございませぬ。たった今、黒田如水殿が当家に仕官して参りました。黒田如水、いや黒田官兵衛孝高殿といえば、唐土(もろこし)の諸葛孔明にも劣らぬと高名の天才軍師でございます」
1662年。黒田如水は評判通りの武士(もののふ)であった。光秀と共に四国へ出兵すると、見る見るうちに讃岐の十合氏と伊予の河野氏を滅ぼした。畿内は孫一が固めていたが、浅井長政、斎藤道三らに攻め込まれて苦戦続きだった。
1663年。四国攻めから黒田如水が畿内に戻ってきた。
「讃岐、伊予の征圧、ご苦労であった」
と孫一がねぎらう。
「しかし、その間、浅井、斎藤が当家に攻め込んできたご様子。敵二つは多うございます。いずれかを叩いておかねば、畿内の守りは危のうございます」
「じゃが浅井も斎藤も攻め滅ぼすには力が大き過ぎよう」
「それがしに策がございます。本年中に、浅井親子の首を取ってご覧に入れます」
黒田如水は、その言葉通りにその年の暮れ、浅井家を滅ぼした。
「浅井といえば山城、近江と二国を所有していたはず。いかにして一年で二国を盗ったのじゃ?」
孫一が如水に尋ねる。
「まずは山城に寡兵にて攻め入りました。すると敵は野戦に打って出たので、これを撃破して近江に退却させました。次に山城に攻め入った際も野戦になったので、ここで敵の兵力を無にして退却させ、山城の空城を落城寸前まで攻めて退却いたしました。そして次に山城へ攻め込むと、敵は兵力が無いにもかかわらず、山城の国惜しさか、落城寸前の城に立て篭もったのでございます。ここで山城の城を落として浅井長政を討ち死にさせましたので、近江も無傷で当家の領地になりもうした」
孫一は舌を巻いた。噂以上の天才軍師だ。この漢を敵に回さなくて良かったと痛感した。
1664年。山城を手中に収めたことで、雑賀家は朝廷を動かして自由に官位を与えることができるようになった。孫一自身は大納言の官位を受けた。四国に残った長宗我部にも官位を与えて従属させた。また九州の龍造寺も従えて、いよいよ西の敵は九州、中国に勢力を伸ばす島津家ただひとつとなった。
薩摩隼人の島津軍は手強い敵だった。1665年、1666年と進軍を繰り返すが、なかなか滅亡までには至らない。雑賀軍が薩摩まで達したのは1567年のことだった。
こうして1668年には九州、四国、中国、近畿の西側を所領とした雑賀家だったが、この頃になると東国でも大名の優勝劣敗が明らかになっていた。
「西国の憂いはなくなった。次は東へ攻め入ろうぞ」
孫一はいきり立っていた。それを光秀が制止する。
「お待ちくだされ、殿。確かに西国に雑賀の旗は立ちもうした。されど、相次ぐ戦闘にて土地は枯れ果て、農民は疲弊し、年貢がほとんど入って参りませぬ。このままでは、たとえ領地は有っても無きに等しうございます。ここは一度、侵攻の手を休め、石高回復に力を注ぐべきと考えます」
光秀の進言に従い、前線の山城、伊勢を孫一、友信の兵が守り、光秀、如水、恒興は四国、中国、九州に散って内政に専念した。が激戦の爪痕は大きく、荒廃した領地を復興するには三年の月日を要した。
石高が回復したためか、雑賀家の威信は更に上昇したようだった。但馬の波多野、摂津の本願寺などの大名が続々と降伏勧告に応じ出した。
「美濃の斎藤は度重なる迎撃戦の結果、攻め込む力を失っております。この期に乗じて、越前の朝倉、能登の畠山と北陸道を攻め進んで参りましょう。さすれば強敵は越後の上杉と甲斐の武田のみにございます。幸い当家は、関東の北条家とは同盟関係にあります。北条を盾とすれば、上杉、武田とも互角に戦えましょう。
西の強豪・島津に比べれば、朝倉、畠山はさほど恐れる敵ではなかった。雑賀家の圧倒的な兵力の前では、強風に吹かれた木の葉のようにあえなく散った。こうして国力をさらに高めた結果、斎藤と並び伊勢を脅かす勢力だった織田家もついに雑賀家に降伏した。
「殿、織田信長殿が参られましたぞ」
「織田信長にございます。拙者も一度は天下を夢見た身。雑賀殿の家臣に加わったからには、必ず殿に天下が渡るよう尽力致します」
尾張から伊勢を攻められる危険が排除されると、雑賀軍は美濃へ攻め入り、長年に渡って苦しめられ続けて来た宿敵斎藤道三をついに攻め滅ぼした。
こうして順風満帆に勢力を伸ばして来た雑賀家だったが、計算外の出来事が起きた。次に攻める予定だった上杉謙信が北条氏康によって攻め滅ぼされてしまったのだ。
雑賀家の戦略では上杉を滅ぼして越後を奪ったのちは奥州を平定するはずだった。しかし北条によって奥州への進路が塞がれてしまったのだ。
さっそく軍儀が開かれた。
「上杉家との激闘で北条家は疲弊しており、越後の城はまだ改修されておりません。同盟を破ってでも北条を討つ千載一遇の好機かと存じます」
「わざわざ同盟を破棄するのは下策。今は北条を盾に使い続けて、武田家と決戦するべき時にございます」
武田信玄は甲斐、北信濃、駿河、三河の四国を有する大名だ。所領では比較にならないが、家臣が強者揃いである。事実、敵の倍の兵力で挑んだが手痛い敗北を喫したこともある。
「殿、いかがなされまするか」
「うむ。たとえ関東、奥州を平定したところで、武田信玄が当家に降伏する大名とは思えぬ。どのみち戦わねばならぬ相手じゃ。ならば武田を討つ!」
雑賀軍は総攻撃を決意した。全国に散っていた全将を美濃に結集して北信濃へと攻め込んだ。対する敵も全将にて迎撃してきた。兵力では大きく勝る雑賀軍であったが、戦国最強と異名を取る武田騎馬隊の抵抗はすさまじく、なかなか攻城戦まで持ち込めなかった。
と、そんな時だ。
「殿、北条氏康が当家との同盟を破り、能登を攻め落としました」
なんと全武将が美濃に集結していたため、空き家となった能登が簡単に落とされてしまったのだ。
「おのれ氏康め。盟約を反故にするとは卑怯なり」
孫一は地団駄を踏んだ。そこへ如水が耳打ちする。
「殿、これはむしろ好機にございます。向こうから同盟を破ったのですから、こちらからも堂々と北条領へ攻め込めます。能登を奪還し、さらに越後を奪えば、二方から武田を攻められます。
度重なる野戦で雑賀軍は大きな打撃を受けたが、それは武田も同様だった。しかも石高で大きく劣る武田家は雑賀家ほど素早く兵を増強することができなかった。武田家のほうから雑賀領へ攻め込んでくる心配は少なかったので、雑賀軍は主力部隊を加賀へ移動させて能登へ攻め入った。関東に本体を置く北条は、能登の防備が手薄だった。雑賀軍はたちまち能登を奪還し、そのまま越後まで奪い取った。
そして兵力を二手に分けると、尾張からは三河を、越後からは北信濃を攻めた。この戦略によって武田の迎撃兵力は北と南に二分され、さしもの戦国最強騎馬軍団も威力を十分に発揮することができなくなった。
北信濃、三河を攻め落とされた武田信玄は、次に北信濃からは甲斐を、三河からは駿河を攻められて、ついに歴史からその名を消した。
孫一旗揚げからすでに二十年が経過しようとしていた。
「それにしても、あの武田信玄を攻め滅ぼせようとは、夢にも思わなんだ事よ」
「殿、いよいよ天下統一の仕上げにございます。次は同盟を反故にした北条攻めです」
北条家の家臣は武田家ほど強者ではなかったが、居城の小田原城は難攻不落の要塞だった。ここに一度立て篭もられると、びくともしなかった。
「あの城,なんとかならぬものか」
孫一は思案に暮れていた。
「では敵を誘い出しましょう」
如水が言った。
「下野を囮に差し出します。わざと下野の守りを手薄にし、北条に攻め込ませまする。北条が攻めてきたら、すかさず退却。その後、上野、上総を落とせば敵軍は南北に分断されて武蔵へは逃げ帰れません」
如水の策は当たった。下野を相手に盗らせる事で、北条軍は北関東に展開し、その領地を南北に分断されると南領は蛻の殻となった。さしもの小田原城も武将が一人も立て篭もっていない状態ではなんとも脆く、雑賀家の力攻めで落城した。
1580年に関東を平定した雑賀孫一は、いよいよ奥州へ攻め入った。
奥州を平定していたのは出羽の最上義光だった。さしもの奥州の覇者も、関東以南を平定していた雑賀軍の敵ではなかった。各地の合戦では成す術も無く敗れ続け、ついには出羽の地で勝敗が決した。
1581年、雑賀孫一によって天下は統一された。
戦国と呼ばれた時代は、ここに幕を閉じた。
二年後、孫一は朝廷より征夷大将軍を賜り、
以後、雑賀幕府は346年の長きに渡って日本を支配していくのである。
「不如帰」(発売日1988年8月19日/発売メーカー・アイレム)
<『マル勝ファミコン』1990年1月26日号に”わずかに”掲載/発行・角川書店>
初めて書いた歴史SLGのリプレイです。歴史SLGといえば、やっぱり光栄(現・コーエー)が名作を数多送り出していますが、ファミコンの『不如帰』は隠れた名作歴史SLGと高く評価しています。『信長の野望』で鈴木家でプレーすることは殆ど無いんですが、『不如帰』の雑賀家は結構やり込みましたねえ……。名前でしょうか、それとも顔グラでしょうか(笑)。