$harunoのブログダウンタウン(DOWNTOWN)

wikipedia 引用
浜田雅功と松本人志から成る日本のお笑いコンビ。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業)所属。
本業のかたわら、CM、ドラマ、映画、文筆、音楽等でも活動する。



【 メンバー 】

浜田 雅功(はまだ まさとし)
1963年(昭和38年)5月11日
身長165cm
立ち位置は向かって右でツッコミ担当。
戸籍上表記である「濵」は「浜」の旧字体の異字体。

松本 人志(まつもと ひとし)
1963年(昭和38年)9月8日
身長172cm
立ち位置は向かって左でボケとネタ作り担当。

※出身地は二人とも兵庫県尼崎市



目↓( 伝説 )



【 経 歴 】

1982年4月、
浜田が尼崎市立潮小学校からの友人であった松本を誘って、
吉本の芸人養成所「吉本総合芸能学院(NSC)」に入学。

大阪NSC一期生(漫才コース選択)となる。
同期にはトミーズ、ハイヒール、内場勝則、浜根隆、前田政二などがいる。
同期の中で一番テレビデビューが遅かったと浜田は語っている。

1982年7月、第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクールに「松本・浜田」として出場し、
福笑い大賞を受賞する。

同年8月、フジテレビ系列、笑ってる場合ですよ!お笑い!君こそスターだ!に
「ひとし・まさし」の名で出場し、グランドチャンピオンとなる。
またこの頃、新人としては異例の早さでなんば花月の舞台に立つ。
この後もコンビ名は「青空てるお・はるお」、「ライト兄弟」と変遷する。



1983年5月、
松本が喫茶店で何気なく開いた雑誌に偶然記載されていた「ダウンタウン」という文字から、
コンビ名を「ダウンタウン」とする。

1985年10月、
関西ローカルの深夜番組『今夜はねむれナイト』のミニコーナーとして
『ダウンタウン劇場』がスタート。
それまで人気がなかったダウンタウンがこれを機に徐々に人気を博し、
その翌年の1986年5月には「心斎橋筋2丁目劇場」がオープンし関西の若者から人気が増えてきた。

1987年4月、
毎日放送が関西ローカルで制作した初の看板番組『4時ですよーだ』でブレイク。
大阪を中心に火がつき、
「夕方の大阪の街は『4時ですよーだ』を観るため人が居なくなる」と言われる程の番組となり、
関西でアイドル的人気を得るようになる。

1988年10月、
関東ローカルでウッチャンナンチャンら同世代の芸人と共演した、
深夜のコント番組『夢で逢えたら』が始まると、
同時期に『笑っていいとも!』のレギュラーとなり、本格的に東京に進出することとなった。

『夢で逢えたら』が全国放送となった同年10月には、
現在も続く『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』が関東ローカルで始まり、
そして1991年に始まったゴールデンでのコント番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』によって、
国民的な人気を得る。

その後、1993年に『ダウンタウンDX』、1994年に『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』がスタートし、
どちらも今日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』に次ぐ長寿番組となっている。



目↓( ダウンタウン伝説①(松本編) )




【 漫才師としての評価と影響 】

漫才ブーム隆盛当時、
一般の芸風としてボケとツッコミを早口で捲し立てる「掛け合い喋繰り」が幅を利かせていたが、
その中において松本と浜田の妙に間の開くシュールな漫才スタイルは異質な存在であった。
この喋りのテンポが遅い点を指摘した島田紳助は芸風の方向性を松本に問いただすと、
問われた松本は模索中ながらもある程度の確信がある旨を明かす。

後に紳助は、ダウンタウンの漫才(の方向性が正しかった事)に衝撃を受け、
同時にそれまで培った漫才がすでに通用しなくなっている現状を自覚する事になる。
これが漫才を引退するきっかけとなり、紳助・竜介を解散した紳助は、
記者会見の席上で解散の理由について、
「うめだ花月で巨人・阪神とか、サブロー・シローとか、
ダウンタウンを見てると(自分達は)明らかに負けている。それが悔しくて辛い」と述懐した。

かつて関西ローカルで放送されていた番組等で番組観覧者に若年の女性層が多かった事から、
芸風が若年層に向けた漫才のスタイルのイメージが幅広く定着する事になるが、
舞台上では子供から老人まで幅広い年齢層を笑わせ、
その場の観客に合わせたネタを即興で駆使するテクニックがズバ抜けており、
それを舞台袖で観ていた芸人達は、そのネタの的確さと柔軟なスタイルに感心していたという。

上岡龍太郎は「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。
それがコント55号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。
ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。

ダウンタウンは2人とも客よりも高い位置で芸をやっている。
これからの漫才(≒コンビ芸)はどうなるんやろ」と評した。

ダウンタウンの漫才は、前述の島田紳助を始め一部の芸人からは高い評価を受けていたが、
漫才師や演芸評論家の中には酷評する者も少なくなかった。
特に横山やすしは、『ザ・テレビ演芸』内のコーナー、
新人勝ち抜きオーディションにライト兄弟の名で出場した際、
家庭内暴力についてのネタを披露したところ、二人の漫才を「チンピラの立ち話」と酷評し、
「テレビでやるものではない」と叱責した。



目↓( ダウンタウン伝説②(浜田編) )




やすし以外にも、NHK上方漫才コンテストでは大爆笑をとったにも関わらず、
最優秀新人賞を逸し(トミーズが受賞)、ABCお笑い新人グランプリでは最優秀新人賞をとったが、
一部の審査委員から「理解出来ない」「(観客には)受けていたようだが、
どこが面白いのか分からなかった」と酷評されている。
後に、松本はやすしが酷評した事に対し、
「チンピラの立ち話で結構。チンピラが立ち話をしていて聞いてみたら面白かった、
それこそがオレの目指す漫才」
「ベテランの『漫才とはこうあるべき』という押し付けが漫才を衰退させる」と、
自身の著書『遺書』において反論している。

お笑い芸人を劇的に増やしたのは、この2人の芸風が簡単に見えて、
誰でも出来そうに思われた事が影響したとも言われている。
これは、ダウンタウンが1期で卒業したNSCの創設も関係しており、
島田紳助はダウンタウンとの対談でそのことに言及し、
「ダウンタウンはしっかりとした漫才ができているうえでの芸風だが、
はじめからダウンタウンと同じような芸風でやろうとしている芸人が多い」と過去に指摘していた。

ダウンタウンと同期であるトミーズ雅も
「みんな松本のダラダラしたしゃべりの表面だけ真似してるけど、それだけじゃ駄目。
松本は本当は150km/hの球を投げることができるのに、それをわざと100km/hで投げている。
他の奴らは110km/hしか投げられないのに100km/hで手を抜いている」と評している。

『アメトーーク!』での東野幸治曰く、若手芸人たちは一度はダウンタウンの芸風に感化されて、
特に松本のポーカーフェイスなボケのスタイルを真似してしまう事が多いらしく、
そう言った状態のことを「ダウンタウン病」と評している。

その時に山崎弘也(アンタッチャブル)は、
デビュー当時の芸風が現在と全く違っていたことを突っ込まれると、
「(当時は)松本さんの様に、ボケをクールにやらないと売れないのかと思っていた」と回顧している。

ダウンタウンとしての本格的な漫才は、ビデオ『ダウンタウンの流』を最後に披露していないが、
その後も自身を「漫才師」と称している。

『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』でのフリートークと漫才では、
もしかしたら調子の良い時のトークに漫才が負けてしまうかもしれないと語っていた。

ダウンタウンの漫才の大半は、2009年現在、ビデオ・DVD化されておらず、
見ることが難しい状況になっている。

しかし、松本と浜田の二人の間ではコンビ解散のときは最後に、
なんば花月で漫才をやろうと決めているという
(松紳にて島田紳助からのダウンタウンの最後はどうするのか? という問いに対しての松本の発言などより)。



目↓( ダウンタウン伝説③(浜田&松本編) )




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