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江戸時代末期、尊皇攘夷を旗頭に、水戸藩勇士達が筑波で決起した。
彼らは自らを「天狗党」と名乗り、攘夷の先駆けたらんとしたが、徳川幕府の崩壊に巻き込まれ悲惨
な最期をとげる。
「赤心をもって事にあたる。」当時志士達のあいだでよく使われた言葉である。
一度志を立てたら私心を捨て、目的達成の為には命をも惜しまない、というような意味であろうか。
水戸藩で斉昭に仕え、水戸藩随一の人格者として全国の志士達に影響を与えた「藤田東湖」。
西郷隆盛も水戸藩の江戸屋敷で面会し、たいへん感銘を受けたとされている。
天狗党には、武田耕雲斎ら藩の重鎮も複数参加していたが、「東湖」の三男の「藤田小四郎」が
次第に首領のように担がれていった。
幕府から追討令がだされた為、信州から美濃をさまよい、ついには加賀半藩で捕縛。
幕府からだされた措置は、斬首。敦賀の来迎寺にて処刑された。
享年24の早すぎる最後であった。
「新納忠元」
戦国時代の島津家家臣団においても、その勇猛さは今に伝えられています。
新納家は、島津宗家4代当主忠宗の四男時久を家祖とし、その子「実久」から分かれた分家の
家柄に1526年、新納祐久の子として志布志で誕生しました。
島津貴久と島津義久の2代にわたって仕え、主従一体となり幾多の戦いに参加し、常に先陣をきって
敵に向う姿は、島津一の猛将とだれもが認めるところでした。
義久・義弘からの信任も厚く、慶長の役で出征した時には、薩摩藩の留守居役に指名されるほどでし
た。
長年の武功により、大口の地頭に任命され所領を与えられましたが、秀吉の薩摩征伐軍に対して
は最後まで徹底抗戦を主張するほどの武闘派でした。
その後は大口で、若い武士達への教育に努め、彼が纏めた二才咄格式定目(にせばなしかくし
きじょうもく)はその後の薩摩藩全体の郷中教育の原点とされるています。
1610年、多くの武士、領民に惜しまれ大口城にて死去。
享年85歳の大往生でした。