ゴッホの病気について語るには『耳切り事件』を外すわけに行きません。

しかし、
耳きり事件の詳しい経緯は分かっていません。
そもそもゴッホ自身が覚えていないのです。

唯一信用出来る書簡集もそんなわけで使い物になりません。

現在、
伝わっているのは、
耳切り事件のもう一人の当事者ゴーギャンの『その前後』と言う手記によるものです。

心理カウンセラーのブログ-ゴーギャン3
1902年ゴーギャン 『叫び声』

心理カウンセラーのブログ-ゴーギャン2
1889年ゴーギャン
『ヤコブ・メイエル・デ・ハーンの肖像(サーター・リザータス)』


ゴーギャンのこの手記は事件から15年も経った後のものであり、
正確な記憶と言う点でも、
ゴーギャンの一方的な言い分と言う点でも信用出来ません。

しかし、
現在、ゴッホの耳切り事件の顛末を知る方法はこれしかないのです。



12月22日夜、
カフェにおいて、議論に激してゴッホは
ゴーギャンに向かってアブサンの入ったコップを投げつけます。
翌朝、
ゴッホはゴーギャンに謝罪しますが、
前夜のことはまるで覚えていなかったようです。
そして、
その日の夜、
ゴーギャンがヴィクトル・ユゴー広場を横切ろうとしていると、
後ろからゴッホの足音が聞こえました。
振り向くと、ゴッホがカミソリをもっていて、
いまにも斬りつけてきそうな気配でした。
しかし、
ゴーギャンが睨みつけるとゴッホはカミソリを収め、
トボトボ戻っていきました。
しかし、身の危険を感じたゴーギャンは「黄色い家」に戻らず、
市中のホテルに泊まります。
翌日朝、ゴーギャンが「黄色い家」に戻ると、
人だかりがしていました。
前の晩、
ヴィクトル・ユゴー広場から「黄色い家」に戻ったあと、
ゴッホは右耳(実際には耳たぶの一部)を切り取りました。
そして、
その肉片を封筒に包み、行きつけの売春宿に持っていき、
お気に入りの娼婦レイチェルに渡したというのです。
その後、
ゴッホは家に戻り、ベッドに横になりました。
そして、
翌朝、娼家の通報を受けた警察が黄色い家にやってきて、
耳の動脈を傷つけたため大量に出血し、
意識が遠のいているゴッホを発見します。

(文中の黄色い家とは、
当時ゴッホとゴーギャンがシェアしていた家のこと)
(ゴッホの伝記より)


本当にホテルに泊まったのですか??ゴーギャンさん??

と突っ込みたくなりますが、
概ねこのような顛末であったようです。

当時、
この事件は新聞でも報道されたようですが、
新聞報道とゴーギャンの言い分に大きな隔たりはないようです。

問題は事件の経緯より、
この時のゴッホの精神状態です。


ゴッホはアルル市立病院に運び込まれ、
当直医だった若手医師、フェリックス・レーの診察、治療をうけます。
ゴッホはひどいせん妄状態にあり、
監禁室にいれられました。


(弟)テオが駆けつけた時には、
まだゴッホは意識が混濁しており、
弟を認識できませんでした。
テオは兄の枕元にいましたが
48時間をすぎても意識レベルが戻らず、
せん妄状態にあったようです。
いつまでもまともな意識状態に戻らないので、
仕方なく、テオはレー医師と郵便配達夫ルーラン
(あの肖像画の)に兄を託し、
ゴーギャンとともにパリに戻ります。

やがて、
ゆっくりとゴッホは意識を回復し、
12月27日にはルーラン夫人と会話を交わすまでになりました。
ところが、
その後、再び悪化して、隔離室に戻されます。
一晩中興奮状態が続き、
次の日、面会に行ったルーランはゴッホに会えませんでした。

翌12月29日、
ようやく、ゴッホの状態は落ち着き、大部屋に移されます。

ゴッホの病状をレー医師は「てんかんの一種」と診断、
ブロムを処方します。
その後、
この若手医師はフィンセントの病態を
「幻覚と興奮性精神錯乱を特徴とするてんかんの一種で、
その発作性変調(クリーゼ)は過度のアルコール摂取によって誘発される」
と上司に報告しています。



その後のゴッホはこの『クリーゼ』なる不可解な発作に苦しめられますが、
現代的に見てこのクリーゼは非常に不思議なものなのです。

ゴッホをてんかんであった有名人の代表とする説は根強いですが、
そのてんかんとする説はこのクリーゼを根拠にしています。

つまり、
クリーゼを読み解くとゴッホの病名にになると言うことです。

しかし、
合理的に考えてこのクリーゼがてんかん発作と考えるのは無理があります。

クリーゼがてんかん発作でないとしたら、
ゴッホはてんかんと言えないと言うことになります。




つづく