ひだまり 日常生活

ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

  事しあれば
    うれしかなしと時々に
      うごくこころぞ人のまごころ
先月初めて田植えを経験しました。

今まで馬鈴薯、玉葱などいろいろな作物を植えましたが、やはり稲は特別な感じがしました。

まず裸足になり田んぼの中に入ることに少なからず抵抗を覚えます。いい年齢のおばさん(私)がキャーとかワァー、ギャーなど叫びながら水の中に恐る恐る足をつけ、少し慣れたところで小分けにした幼苗を手に持ち、泥の中へ植え付けました。ところが前日の雨でなかなか上手くいきません。悪戦苦闘しながら、どうにかこうにか植え終わるとほっとして、一緒に作業していた方々と和気あいあいとした雰囲気になりました。

昔の共同作業の良き一面を想いました。

足も手も泥だらけの感覚は子どもの頃に初めて海辺で遊んだときに似ています。

便利過ぎる世の中で失われる「労苦と喜びの関係」を心に留めて、自分が直に見ること触れることに、もう少し重きをおいて生きていけたらと思います。





ご近所の水田 7月9日現在




〽月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ
我身ひとつは もとの身にして

(伊勢物語 四段・古今集一五、七四七)

「よろづ こぞ(去年)に似るべくもあらず 覚ゆるまゝに、さては月やこぞの月にはあらぬとおもへば、こぞ見しまゝの おぼろ月夜なり。春やこぞの春ならぬとおもへば、それもかはらず。たゞ我身ひとつは猶うしと思ひつゝ有しまゝのもとの身にして とよめるにや。 又我身ひとつは猶うしと思ひつゝ有しまゝの身にて、月やはおもしろかりし こぞの月にあらぬ。春やはおもしろかりし こぞの春ならぬ。梅の花ざかり、おぼろ月夜、さながら有しまゝにてこぞに にるべくもあらぬ 其ゆゑ何ぞやと、深くとがめてよめるにや。これも心のあまれる歌と見えたり」

(勢語憶断上之上 契沖)


「今夜コゝヘ来テ居テ見レバ、月ガ モトノ去年ノ月デハナイカ。サア、月ハ ヤツパリ去年ノ トホリノ月ヂヤ。春ノ ケシキガ モトノ去年ノ 春ノケシキ デハナイカ。サア、春ノケシキモ梅ノ花サイタ ヤウスナドモ ヤツパリ モトノ去年ノ トホリデ、ソウタイ ナンニモ去年ト チガウタ事ハナイニ、タゞ オレガ身一ッ バツカリハ、去年ノ身デアリナガラ、去年逢タ人ニ アハレイデ、其時トハ 大キニ チガウタ事ワイノ。サテモ サテモ 去年ノ春ガ恋シイ」

(古今集遠鏡 本居宣長)



月も春もむかしのままに見えるとよむか、月も春も違って見えるとよむか……。両方の説を揚げる契沖は凄いなと思いました。


話は変わりますが、世の中は数年前とすっかり変わってしまいました。そのように見えるだけなのか、本当にすっかり変わってしまったのか、どうでしょう。

月も春も梅の咲く様子も少しも変わらないように見えるのに。




………
私も緊急時の動画撮影及びその報道に強く疑問を感じます。動画撮影の影響で人命が失われたら、どうやってお詫びするつもりなのでしょうか。もしその影響で自分や大切な人の命が絶たれたとしたらとは考えないのでしょうか。このようなことを許容してはならないし、まして結果的に助長するようなことも言語道断だと思います。






「…人は夢幻のやうなる世に、誰かとまりて、悪しきことをも見、よきをも見思ふべき…」

“訳文” 人間は夢や幻のような(短くはかない)この世に、だれが生き長らえて、悪いことをも(真に悪いと)見、よいことをも(真によいと)見たり思ったりできようか(いや、だれもできないだろう)

『堤中納言物語』「虫めづる姫君」より



前回の「蟲」というブログで今年を終えるのも、どうかと思ったので “虫”や“幻”という言葉が繋がるこの一文を書いてみました。何はともあれ、穏やかな年を迎えることができますように。