(タイタニック号の悲劇について)
感じることはふり返って考えてみることであり、思い出すことである。
大小さまざまな出来事にぶつかって、だれでも同じことを経験しているはずである。
はじめての出来事、予期せぬこと、急を要することなどが注意を占領している。
だからどんな感情も生まれないのである。
出来事そのものを正直に再構成しようとする人は、わけがわからず、
どうなるのかもわからず、まるで夢の中にいるようでしたと伝えようとするだろう。
ところが、出来事を考えることによって今恐怖感が湧いてきて、物語は劇的なものとなってしまうのだ。
病人を死ぬときまでみとった時、深い悲しみにとらわれるのも同じことである。
その時はただぼうっとしていて、瞬間瞬間の知覚や行動にすっかり心が奪われている。
たとえ恐怖や絶望ののイマージュを他人に伝えているとしても、苦しんでいるのはその瞬間ではない。
自分の苦労をあまりにも長く考えすぎた人たちが、
相手に涙を流させるほど切実に語っている時でも、
そう語ることで少しの安らぎを見出しているのである。
とりわけ死んでいった人たちがどんな感情をいだいていたとしても、
死はいっさいを消し去ってしまったのである。
われわれが新聞を開く前に、あの人たちの責め苦は終わってしまった。
苦しみはいやされていたのである。
これはだれにでも親しい思想である。
この考え方から思うに、人はほんとうのところ、死後の生を信じていないのだ。
生き残った人たちの想像力の中では、死者たちは死への道を歩み続けているのである。
・・・・・アラン
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