去る9月。
久しぶりの、アニマルコミュニケーション2DAYSをしたときのこと🐕🐈✨🥰
もともとonlineでのお仕事の方が多かったわたしの個人事業ですが、covid-19が世界を覆って、onlineやインターネットの世界が賑わい始めてから、あえて対面でお会いする方向に力を入れてお仕事をしたくなって。
これまたなぜだか世間と逆行する様に、わたしを自宅に招きたがったり、対面で顔を合わせてのコミュニケーションを望まれる飼い主様たちに呼ばれるままに、ご自宅・対面や、イベント・対面でのお仕事が増えていった2年間☺️
そうして途中で信州に引っ越しをして、近頃は再びonlineにかえりつつあるので、飼い主さんや動物さんと生身でお会いしてガッツリとコミュニケーションを出来るのはなかなかの、貴重な機会でした😊
そもそも、動物病院勤務の動物看護師を経て、しばらく別のお仕事をして、いろんなことを経験して、そうしてアニマルコミュニケーションをお仕事としてはじめてから6年ほど経つと思うのですが、その間、わたしがブログなどで"アニマルコミュニケーション"について書いたのは、本当に数えるほどでした。
はじめた当初から今に至るまで、毎回、コミュニケーションをさせていただくたびに、何も言わないし求めてないのに、自らものすごく丁寧なご感想や、想いを書いて送ってくださる皆様が多くて。
その上みんなで口を揃えて「もっと広めたい」と言ってくださっていて。
でもね、そんな有難い想いをたくさんたくさんいただきつつも、皆さんからいただいた感想を掲載する氣になれなかったし、一体どんなことが"アニマルコミュニケーション"なのか、っていうのも、ぜんぜん書けなかったんだよね。
だって、どれもこれも、わたしがお仕事をさせていただいていたことってね、全て‥‥
プライベートすぎたんだもの。笑
アニマルコミュニケーションでいえば、ご本人やご家族と、その動物さんたちだけの、大切な、静かな、エゴも純愛も情念も感情も執着も清らかさも言葉になりきらなかったものたちも、その方の人生丸ごとが入り乱れたような、剥き身のような生身の時間。
告知も案内も最小限だから、そもそも狭くてわかりにくい、不親切な入り口を見つけて、そこで何が起こるのか分からなくても勇気を出してそこに飛び込んできてくれて、そうやってせっかくお金と時間を払ってまで自分で設けたその空間を、一時的な楽しみや刺激として消化するんじゃなくて、繊細で微細に在るその現れを。
特別な"なにか"じゃない。
あなたが毎日、生きて、生きて、生き抜いて在るその情と愛の織り成しを、現れるそのままに、まずはエゴイスティックにひとりじめしてでも、なんの余分も虚栄も挟まないで。
充分に受けとってほしかったんだ😊
わたし自身は、正当な対価はお金も含めてもう受けとってるし、"仕事"を通して世界に起こる創造の最大値を、その方と一緒に現すためにも、ひとたび真剣勝負でお仕事をさせていただいたなら、あとは全部、その方のなかに、静かに静かに、返し続けるだけにしたかった。
それは、人のそばに寄り添うものとして生きる動物たちが、ずっとわたしたち人間に、静かに与えてくれていること。
たぶん、そんじょそこらの飼い主さんよりもよっぽど執着が強くて、動物たちへの依存心も、妄想癖も、現実逃避も、反社会性も、なんなら人間世界への絶望と憎悪も強かったわたしなので(なんなら今でもまだそれがゼロではないわ。笑)、彼らの存在だけが心の拠り所になる飼い主さんたちのきもちもよーーーーーく分かるし、人間に対してではもう投影すら出来なくなって、そばで純粋に居てくれている動物さんたちに、無意識に自分の愛とエゴを投影するしかないような状態も、本当に痛いほど分かるんだ。
そして、それをどこかで自覚しながらも、ちょっとだけ冷静に、情念の世界を超えて動物たちの生きる世界を見つめてゆける自分になろう、という、祈りのような、その心根も。
おそらく、病院という空間もそうなんじゃないかなぁと、小さな頃から医療現場を見つめ続けてきてそんなふうに感じたのだけれど、本来そこは病氣を治す場所じゃなくて、本当はね、死に方を選びなおすことを通して、生きてあるうちに再度、生き方ではなく、もっとシンプルな"生きる"を自ら、問い直す場所なんじゃないかなぁと。
それが、本当の意味での癒し、と呼ばれる入口になるんじゃないかなぁと、ずっとわたしは、小さな頃からいろんな生き死にと選択を眺めてきて、そんな氣がしてる。
わたしたちは、"生き方"は選ぼうと努力するけれど、"死に方"を選ぼうとする努力は、なかなかしないと思うから。
わたしたちは生まれてきたから、みんな必ず、ひとりのこらず死ぬ。
死亡率はずーっと100%なのが、肉体という世界に与えられた、ひとつの救いで、ひとつの真理。
その、必ず死ぬ"肉の器"世界において、そこには決してとどまることのない、愛、というものを生きようとする。
人と人とのなかで。
生命と生命のなかで。
自分を含めた外側のなにかを通して、愛、というものを生きようと試みる。
大抵は、わたしたちよりも先に逝くことが自然な動物たちとの間で様々なドラマが繰り広げられるなか、それでもそこになにか一つの"純粋"がスーッと通ってあるのは、動物たちという存在が、生きるも死ぬもわかれてなく、ただ、真っ直ぐに"生"を生ききる自然であるからなんじゃないかな?と、そんなふうにおもう。
その純粋の前に、わたしたちの幻想は容易く破られる。
思い込んで、拘っていた何かはまるで役に立つことなく、また、ちっとも自分の本音なんかでもなかったと、どうしたって現れてしまうそのことを、優しく優しく、突きつけられる。
絶対に揺らされないと思っていた、心なんてないと思っていた、そんな領域を容易く揺らされる。
大きな崩壊を受け入れて、自分はまだ、なんの歩みも進めていなかったのだと、その入り口の前で佇んでいた自分に、どうしたってきがついてしまう。
それは苦しくて、怖くて、泣きたくて、カッコ悪いことなのに、穏やかで、安らかで、ずっと求めていた渇きと飢えが満たされてゆくような、そんな時のなかの邂逅で。
そうしてその、静かな嵐のような関係性は動物たちだけで終わらなくて、きがつけば自然とファミリーシップやパートナーシップ。
"自分との仲直り"のような時間に向かい、問い直された生は潔く死を迎えて、確かに死んだのにまだ命が続いていることを実感して、その奇跡のなかで静かに、生まれ変わる。
生き長らえたいと思っていたのは、いったいなんだったのか。
"生き長らえさせたい"と思っていたのは、いったい、自分の何だったのか。
自分にとっての愛しきいのちの痛みと苦しみに添いながら、揺れに揺れに揺らされて、泣きながらでも、問い直す。
目を逸らしたいけど逸らせずに、出来れば見たくなかったことばかりに再会しながら、それでも愛ひとつだけを頼りに、静かにそこに向かい合う。
そういう姿を最前列で見せていただきながら、いつもお仕事しています😌
というのが、わたしが唯一、わたしがしているお仕事について書けることで、あとのことはやっぱり、わたしがご紹介したり、分かち合ったりすることは、なんだか純度が濁るよなぁ、と感じるから、これからもわたしがいただいた感想を載せることは、おそらくないと思います。
代わりに、飼い主さん自らの言葉で世界に発信してくださることは、そこにわたしが絡んでいても絡んでいなくても、とても嬉しい🥰
だって、それが一番、純度の高いコミュニケーションが、"飼い主さんの中で"響いた、ということだと思うから☺️
その、純粋で精妙な響きの波及のなかだけで、きもちよーく至福に在るようなお仕事をこれからもしたいし、その至福から生まれたお金で、人間が抱える貧しさという幻想を、根底から潤してきもちよーく完膚なきまでに逝かせたい💕です💗🥰
という、最後は、単なる強欲と殺意の塊みたいなのを懺悔したところで、今日はお開き😆✨
情報が溢れかえる世の中で、真実を求める人も自然と増えていて、そのなかで、自らを問い直したり考えたりする前に、外側を疑い、批判し、批判してるのに覗き見しながら"やっぱり自分とは合間見えない!"と、自らに与えられた大切な生命エネルギーをロスしては、"貧しい""足りない"と嘆く人たちがいる。
それは、情報ばかりを追い求めていて、その奥に、自分がほんとうにみたいと思っている愛を見失ってるから、なんじゃないかな?と、わたしは思う。
大抵の、人間の愛は、歪んでいてぐちゃぐちゃです。
かっこわるいし、自分勝手だし、見たくないような情まみれです。
それを隠して生きてるから、しんどいんだと思うし、もうなにひとつ隠さなくていいってなった時に、急に爆発したように決壊するのかなぁと、そんなことを感じます。
でもさ、どれだけつべこべ言ったって、そんなぐちゃぐちゃも含めて、愛されてるんだよ☺️
時に、人間同士では受容しきれないものも含めて、世界にすっぽりおさまっている。
それを見つめて見つめて、真っ直ぐに見つめて、いつか自己愛を超えたとき。
彼らの本当の姿が、見えるんじゃないかなぁと、そんなことを思います😊