フォロー頂き、また読者登録も頂けたようで、ありがとうございます。

改めて、この震災が多くの方々に与えた影響を感じるばかりです。

ですが、申し訳ないのですが、
『私はアメーバの"なう"機能に関して、使うつもりはありません』。
一時期使っていたこともありますが、使うのを止めてしまいました。

理由は唯一つ、
『"なう"は、ポストした内容は3ヶ月経つと消えるのです』。
自分の記録した思考の断片が消えるのは、私は嫌です
(それともこれは、私の使っているデバイスの問題なのでしょうか、
如何せん、使う気はありませんが)。

現在の私の状況が知りたい方、どうぞTwitterをご覧に
なってくださいませ。
登録しなくても閲覧だけなら可能です。

http://twitter.com/hanagyu0604akko

メモのようなツイートも沢山ありますが、そういうものだと
理解して頂ければ。
色んなSNSの長所を把握しつつ、うまく使っていきたいです。

最後に。
今回の震災を通じ、SNSの重要性について、考える機会が
多くありました。
停電でマスメディアが機能しなくなり(一時、ラジオですら、
一部の局は放送出来なくなったのです)、
情報源をSNSに求めるところが多かったように感じます。
SNSを運用するのは人間。あくまでもSNSは1つのインフラに過ぎない。
結局、人を助けられるのは人でしかない。
人と人との繋がりが、人を助けるのだと思うのです。

震災を通じ、それまでよりも、誰かと繋がりたいという気持ちが
一層強くなりました。

私の書く文章に興味を持って頂けてありがとうございます。
これからも、なんとなーく、繋がっていけたら嬉しいです(^^)。
アパートから自転車で20分程の所に実家はある。
漕ぎ出して直ぐに、私は街の惨状を目の当たりにした。
ズラッと倒れたブロック塀の列。歩道に接していない歩道橋。
街灯も信号も、何もかもが点いていなくて視界が利かない。
ものすごく危ない。

忙しげに交通整理を行うお巡りさん達を横目に、ひたすら実家へと
自転車を走らせた。
この時、私はうっかりある歩道橋の階段を上がってしまった
(歩道橋から降りる際、地面が落ち窪んだせいで、階段と
歩道の間に深い溝が出来ているのを発見。ゾッとした)。

橋の上から遠くの方が見渡せた。この光景が恐ろしくて忘れられない。
途切れ無く続くテールランプの赤い光が、少しずつ少しずつ
動いている様は、まるで、巨大な蛇を見ているかのようだった。

♪本日のBGM♪-2011031118360000.jpg
↑焦って撮ったので、斜めになってます、お許しを。

そして、空が不気味な程に赤かった。
この時、沿岸部でコンビナート火災が起きていたのだが、
その炎が、雲を赤く染め上げていたのだ。

いったい、何が起こっているのだろう?
この時の私に、それらを知る手立ては無かった。
ただ、早く家族に・私のことを知っている人達に、会いたかった。

少し行くと、いつの間にか雪は止み、見上げると春の星空。
まるでプラネタリウムのよう。スピカの眩い煌めきに一瞬息を呑んだ。
が、見惚れている場合ではなかった。

『おばーちゃん、大丈夫!?』と実家のドアを開け放つと、
真っ暗な家の中に、祖母は独りで居た。
地震で壊れた食器類を片付けていたらしかった。
怪我も特に無く、非常に元気であった。
『来てくれてよかったわぁ、電話も通じないし…』と何度も言われる。

夕食をどうしようか、祖母が困り果てていたので、
カセットコンロとガスボンベを引っ張り出してきて、
クッキングヒーターの上に据付けた。
また、停電で灯りが取れないので、自転車用のLEDライトを外してきて、
コップに突っ込み、天井に向けて照射。
暫くこれが、夜間のメイン照明となる。

ここで、妹が半泣きで帰宅。
『よかったー、家に居たんだー、避難所じゃないかと思って捜したよー』
と言う。『お姉ちゃんのケータイも通じないし!!』と言われ、
えっ、と思って確認すると、どういうワケか圏外になってしまっていた。

近所の基地局が、停電のために使えなくなってしまったのが原因らしく、
向きを変えても振っても電波は入らなかった。
ケータイを掴んで外へ飛び出すと、実家が高台にあるせいか、
遠くの基地局の微かな電波がキャッチ出来た。
停電が復旧するまで、高台の頂へメールを取込みに4・5時間おきに行っていた。

弟は渋滞に巻込まれて、夜遅くに帰ってきた
(職場から家まで4時間もかかったらしい)。
母は職場待機で帰れなかった。
その夜は電気の入っていないこたつの上にラジオを置き、
その周りにもこもこ着込んだ皆で集まって眠ることになった。
電気の入っていないこたつは逆に寒いことが解った。

初日の夜、頂から、沿岸部の方角に火柱が立っているのが見えた。
市街地は真っ暗で、何がどうなっているのかさえ、解らない。
ラジオからは『荒浜周辺に300~400の遺体が打ち上げられた』
というニュースが、何度も何度も繰返し聞こえてきた。
実際はそんな数では済まされず、また被災地域が驚くほど広範囲に
渡っていたことを知ったのは、停電が解消されてからのこと。

夜半過ぎ『福島原発で何か事故があったらしい、詳しくは調査中』
というニュースが流れる。
出来れば眠りたかったのだが、余りにも余震が頻発しており、
恐怖でまんじりとも出来ぬまま、朝を迎えた。

耳を下にして横になっていると、地震の前、P波によるものなのか、
遠くから地鳴りが聞こえてくる。その後で揺れがやってくる。
段々と、地鳴りの強弱で、その後の揺れの大きさがなんとなく
判るようにさえなってしまった。

翌日、電気温水器の中に溜まっていた水が尽き、遂に実家、断水になる。
備蓄してあったミネラルウォーターが役立った。
私もアパートから、汲置きしておいた水のボトルを持ってきた。
直ぐに復旧するかと思いきや、断水は丸9日続いた。
2日目・3日目の、電気も水も何も無かった時が最高にしんどかった。

3日目の昼過ぎ、急にケータイの電波事情が良くなる。
近くの基地局が通電し出したのだろう。
『もうすぐ電気、来るんじゃない?』と、家族に伝える。
しかし、夕方になり、夜になっても、電気は一向に来ず、
がっくり、意気消沈する。

しかし、忘れもしない、その日のPM8:40頃、閉じたカーテンの
隙間から突然、白い光がこぼれた。
えっ、と思い、カーテンを開けると、窓に面した通りの街灯が、
煌々と点いているではないか!!
『あぁー!! 電気!! 電気!!!』という私の声に、祖母が隣室から
小走りでやってきた。

停電時、友人からのアドバイス通り、すべてのプラグを抜いて
ブレーカーを落としていたので(これをせずに火災が起きた家が、
結構あったようだ)、それを上げて、問題が無いことをチェック。
そして、ダイニングの電灯をON。
その時私は、これまで生きてきた中で、最も温かな灯りを見た。

心に火が灯る、って、多分あの瞬間の気持ちを言うのだろう。
明るくて温かくて、私は泣いた。
こたつに電気を点けると、やっぱりとろけるように温かかった。
家族が帰ってきて『あっ、電気点いてるー!?』と目を丸くして
喜んでいる顔が嬉しかった。
『温かいね、有難いね』と口々に言い合った。

深夜になって、家族が寝静まってから、震災以来ずっと
考えていたことを行動に移した。Twitterへのアカウント登録。
使うつもりは無かったけれど、情報を知らなきゃ、大事な人達を守れない。
そう、思った。で、現在に至る、というわけである。

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※新たに思い出したことが有り次第、編集・追記していくつもりです。
引続き、お付き合い頂けますと嬉しいです。

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おまけ:毎日少しずつ、自宅の片付けをしている。
この掛時計、壁の釘ごと高い位置から落下したにも関わらず、
奇跡的に無傷。文字盤は、地震発生の時刻を指したまま。
電池を入れ直したら、また時を刻み始めた。

♪本日のBGM♪-2011032720180000.jpg
『電車は動くのだろうか』とふと思った。
私は通勤に電車を使っている。不通になってしまえば、
当然仕事には行けない。どうしよう。
とりあえず自転車で最寄駅に向かった。が、当り前のことだが、
あの揺れで電車なんか動くわけはない。
私は焦った。どうやって仕事に行こう?

仕事場に電話を掛けた。が、発信規制でうんともすんとも繋がらない。
そうこうしているうちに、色んな人からメールが来始めた。
返すのが面倒くさくてとりあえず保留する。
この時点で、家族に無事を伝えるべく、災害用伝言板に
メッセージを残す。

手も足も出ないので、自転車で家へと引き返す。
この揺れでは、どうせ今日は仕事なんて無いんだろうな、とも思った。
連絡が来るまで、家で掃除でもして、待っていようか。
いやしかし、あの部屋を全部掃除するのにどんだけ掛かる?
考えて憂鬱になってしまった。

アパートに着いて、仕事着を脱いで、部屋着に着替えた。
先程来たメールをしっかり読む。殆どが、私の安否を気遣う
メールであった。片っ端から返信をしまくろうとした。
が、発信規制で通じたり通じなかったり。イライラした。

そうこうしているうちにトイレに行きたくなった。
ゴミの山を掻き分けて、トイレの扉を開け、電気を点けようとした…
が、点かない。
この時、初めて私は停電になってしまっていることを悟った。
仕方無く、真っ暗な中で用を足した。

そこへ、仕事場の上司からメールが。
『今日の仕事は無し。こっちに向かうな。今、津波が建物の
前まで来た。今から避難する』との旨だった。この後、4日間連絡が
取れなくなり(停電の為)、どうしようも無いくらいに心配する。

津波ですって!? なんでまた。仕事場は確かに海からは近いが、
少なくとも5kmは離れている筈。
恐怖を感じ、震える指でまたワンセグを起動した。
丁度そこへまた、大き目の余震が来た。
私はその場に頭を抱えて踞った。

余震は程無くして収まったが、私は本当に怖くなった。
このままでは、この街どころか、東北全体が大惨事になってしまう
かもしれない。
携帯電話の電池が保つうちに、通信網が正常に動くうちに、
私は大事な友人達にメールをすることにした。

市内・県内の友人達は、それぞれが事態の収拾に追われていた
(か、停電の影響があった)のだろう、連絡は付かなかった。
しかし、いち早く返信が来たのは、なんと国外に住む友人だった。
海の向こうでも、この地震は既にニュースになっていたようだった。

『ネットも使えないだろうから、必要な情報があれば流すから
言ってくれ』という旨のメール。
停電が復旧し、ネットが繋がる迄の暫くの間(ほぼ丸2日間)、
彼とのメールのやり取りが情報の生命線となった。
とても助かったし、心強かった。

この間何度も携帯のワンセグを消したり点けたりを繰返していたが、
ふと『宮城野区の中学生が、津波に呑まれて1人行方不明になった』
というニュースが読まれたのが聞こえた。
私の仕事場は宮城野区にある。もしかしたら教え子かもしれない、
という思いが頭を掠めた。

国外の友人に、そのニュースの真偽を確かめてもらえるように
メールを送ろうとしたが、電波事情がどんどん悪化しており、
なかなか送れず悪戦苦闘した。
再びアパートの廊下に出て、微弱な電波を捕まえ、何度かの
リトライの後、ようやく送れた。

その頃、外は交通手段を失い、歩いて帰宅する人々と、
自家用車の列で一杯になりつつあった。
その中を縫うようにして、緊急車両が何台もサイレンを鳴らして
行き交っていた。
そんな光景を、私は生まれて初めて目にした。

折から薄暗い1日だったが、次第に雪が降り始め、外は一段と
暗さを増していった。部屋の片付けをしようにも、視界が
確保出来なくて、どうにも動けない。
そこへ、妹から1通のメールが。『実家と電話が繋がらない』との旨。

妹は完全にパニックを起こしていた。
実家はフレッ○光なので、停電が起これば電話が通じないのは
当然なのだが、そんなことを妹に逐一説明している暇は
とても無かった。
しかし、独りでお留守番中の祖母の安否が確認出来ないのは、
確かに不安である。

仕方無い。『私が行くから、安心して』という短いメールを妹に打ち、
私は必要最小限の荷物と共に実家に向かうことにした。
この時の私の荷物。仕事用のバッグ(メイン&サブバッグ)、懐中電灯、
乾電池、USB用充電ケーブル(ケータイ&iPod)+変換アダプタ。

また、この時の私は部屋着(フリース+ジャージ)だったのだが、
これらは断水時でも少ない水で洗濯が出来、すぐ乾くので重宝した。
しかも軽くて、停電時も暖が取り易かった。
靴はレインブーツを履いていった。これも、水回りに気兼ね無く
ザブザブ入っていけてよかった。

(続)