テレビ番組で、「とびはぜ」を観ました。希少な魚類だと。昭和初期の
浦安は、干潟と海が広がって、東京から、潮干狩りや海水浴に出掛ける
場所でした。少し沖にはハゼ釣り船がいくつか、これは、普通のハゼを
釣って船上で天ぷらにして食べる、東京人の楽しみのイベントでした。
あの辺りは、本当の田舎で、少し手前までは乗り合いバス(市営)で
行けました。父親が釣り好きで、私を連れて、大川❓だったか荒川?
だったかの土手を歩いて海に出る河口までいき、父は釣り竿(つぎさお
手元から先まで何本かに分かれて差しつぎをする)、作者の名のついた
結構高価なさをで、私が持ったのは、細い篠竹の先に、針のついたテグス
を結んだもの、父は土手から海の方に向き、私は土手下の彼方此方に
ある、水たまりで、クチボソや小さい雑魚や手長エビをつりました。
手長はかかると引きが強くておもしろかっす。合間に河口の方に
降りて遊んでいる時に、ピョンピョンと岩の上を跳ねる魚を見つけて、
とても驚きました。魚は水の中の生き物と思っていたので!これが、
私と、「とびはぜ」の出会いです!父は自分の釣りに夢中で、生返事、
名前だけ教えてくれました。90年近くも前のお話です。
その後は、特に戦後、埋め立てや開発で、どんどん様変わり、今や、
ディズニーランドを始め、ホテル、水族館、一大観光地です!
日本橋浜町の実家は20年3月の大空襲で付近一帯まる焼け!私は牛込
河和田町の寄宿舎で、辛くも残ったが、木造の校舎は新旧ともに灰に
なり、付属病院は残ったのでした。
父母、祖母、弟は満州新京で敗戦、翌年漸くリュック一つに一人千円
持って、内地に辿り着いたのです。70歳になってい居た祖母は、
耐え切れず、弱って、途中名古屋の衛戍病院(陸軍)で世を去り、
私が駆け付けた時には、もうダメでした。それで私は引上げの惨状は
知らないが、空襲はたっぷり、そして戦後の寄宿舎では、父母たちの
消息も全く不明お金はなし、大豆や豆かす、ふすまだらけの食事のみ
少しでもお金が欲しい、ガリ版きりのアルバイトや、進駐軍の診療所
の偽x線技師やいろいろやっているううちに、酷い肋膜炎で呼吸困難
になり、入院、医学校で、学生は無料のおかげで助かりました!
浦安と魚の話が、こんなことになりました。とりあえず終わります。