先日紹介した、新垣師範からの「平安の形の原型を再現せよ」の宿題ですが、日本の諸先輩方の考察が凄いことになっています。
皆さんそれぞれにご自身のブログ等で考察を披露。逐一チェックするのはそれなりに労を要しますが、新垣師範が、Facebookのタイムラインでその都度シェアしてくださっているので、まとめて読んでいくことができます。
ご興味のある方は、ぜひ、Facebookの新垣師範のタイムラインを覗いてみてください。
え? お前の考察はどうなったのか、ですって?
私がぼんやり考えていたことは、すでにある先輩の考察で一つの可能性として提示されており、その上、技法上の分析・考察も付されていました。
私は、机上で論理を組み立てることはできでも、まだ無想会の平安シリーズを自分で打つことができないレベル。技法上の考察はできないので、これは役者不足にも程があると分かりました。
しかし、謎解きに参加できるレベルにはいない我が身ではありますが、いずれセミナーで示される「解答編」を楽しむためには、無想会の平安に対する理解を深めておく必要があります。
いまは、そのために、『沖縄空手道の真髄 秘伝の奥義「平安の形」の検証』(新垣清、2013年)を読んでいます。
本稿では、その感想を少し述べようと思います。
※
『沖縄空手道の真髄』の内容は、新垣師範が『沖縄武道空手の極意』シリーズで書いてきたことを総決算し、それを踏まえて平安の形に挑んで行くもの。
この書は、平安の形に挑む段が主題だとは思うのですが、実は前半に書かれた、“総決算”の部分もとても面白いのです。
・沖縄空手の心身思想はクシ(腰・後)、身体前面の丹田を身体操作の要とは捉えない。
・呼吸によって身体をコントロールするのではない。武術本来の呼吸は後からついてくるもの。
・刹那の間における身体操作を基準とすれば「力を込める」「力を入れる」等の思想は生まれない。
・沖縄空手には脱力の思想はない。
・沖縄空手が想定する戦いは、相手の気と合わせて攻撃を避ける段階は既に通り越している。
等々。
それぞれ、『沖縄武道空手の極意』シリーズで目にした記憶はありますが、『沖縄空手道の真髄』は記述が構造的、体系的なので、より理解しやすくなりました。
しかし、この総決算部分で、私が一番、空手を愛する方々に読んでほしいと思ったのは・・・
「空手は中国拳法そのものではなく、日本剣術の心身思想で解体、再構築したものである」
という新垣師範のメッセージです。
空手を愛する者は、ある程度空手を追究する過程において、劣等感に苛むことがあります。
沖縄に伝わった中国武術をもとに生まれた空手は、本質的には日本武道ではないのではないか。
かといって、中国武術と言い切れる程、そのエッセンスを濃厚に伝えているとも思えない。
空手とは即ち、きちんと継承されず、失伝した部分の多い劣化した中国武術に過ぎないのではないか。
・・・
空手が、日本武道としても、中国武術としても、中途半端な存在として見えてくる。そんな時があるものです。
そうした失望に襲われた時、探究心の強さ故に、空手のミッシングピースを探しに中国武術の世界に分け入ったり、空手の日本武道としての完成を目指して剣術や柔術との融合を目指す、という行動に出る方も出てきます。
空手の競技に没頭し、そうしたことを考えなくする方も。
空手界における、そんな少し暗い側面に新たな光を当てたのが、新垣師範の「空手は中国拳法を剣術の心身思想で解体、再構築したもの」という主張です。
空手は純粋な日本武道ではない?
空手は失伝多き劣化版の中国武術?
冗談ではない。
空手は、日本武道の根幹をなす心身思想で以って、中国武術を解体、再構築したもの。
日本武道の根幹を受け継ぎつつ、中国武術の要素を取り込むことで、日本列島の四島が産み出し得なかった、特別な日本武道となったのだ。
中国武術と異なるのも当たり前だ。
表に現れる突き蹴りのカタチは、確かに中国武術的であっても、その根幹は完全に日本武道に置き換えられている。もはや別種の武道として、中国武術とは異なる高みに達しているのだ。
日本武道にも、中国武術にも成りきれなかった空手は、純粋な日本武道、純粋な中国武術をアウフヘーベンしたものとして、そのどちらをも越えた存在としての輝きを持つようになるのです。
この視座ほど、空手を愛する者に勇気と誇りを持たせるものは他にないでしょう。
空手を愛する全ての方に、この新垣師範の示した視座を知ってほしいと思うのは、そのためです。
※
・・・と、「空手は中国拳法を剣術の心身思想で解体、再構築したもの」に感動に、溜飲を下げ、空手への誇りを再確認する私でしたが、少しすると、興奮が冷めて冷静になります。
中国武術を日本武道の根幹たる剣術の心身思想で解体・再構成した武道としての空手。
その空手に近づくには、まだ出来ていないことが多すぎます(笑)。
空手は素晴らしい。
されど、己は何なのだ・・・。
ということで、武術としての空手を少しでも理解すべく(身体で身に付ける前には頭でも理解せねばなりせん)、『沖縄空手道の真髄』の後半パートに突入です。
「平安の形」の技術を語る後半は、難解です。
一つは私の心身レベルの低さ故。
もう一つは、おそらく、無想会の平安の形の特徴によるもの。
平安の形を打つ新垣師範やアメリカのお弟子さん達の静止写真は、そのほとんどが、撞木立ちなのです。
「ここは、猫足立ち、ここは前屈立ち、ここは四股立ち」と、記号化された立ち方が次々展開されていく“普通の”平安に比べ、いつも撞木立ちの無想会の平安は、静止写真だけでは、流れが掴みにくいのです。
観の目が無いからそうなる!
と、言われるとそれまでですが、一方で、「だから、一瞬を切り出した極端な立ち方が生まれ、空手の指導において便利な記号として使われたのだろう」と思ってみたり。
これは言い訳ですが(笑)。
それに加え、撞木立ちの完全なる半身姿勢で行う平安は、前屈立ちや猫足立ちに慣れ切ってしまった身には、似て非なるもの。
静止写真と静止写真をつなぐ動きが、自然とは思い浮かんで来ないのです。
なかなか大変です。
そんなわけで、いまは、『沖縄空手道の真髄』の後半の平安の形の解説パートを、むむむと腕組みしながら読んでいる、はみ唐なのであります。
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