後付けとか詮索とか | 浜松で禅修行

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2017/04/24 ケーキ屋禅会より、浜松の老師の質疑応答。

 

Q.
以前は「パン!」がさっぱり分からなかったんですが、最近は分かるところがあって。

 

後で認識してたんだっていうこと、思考を通して見てたんだということがよく分かりました。

 

A.
思考を通して見るから分からなく(録音不明瞭)なるんだと。

 

Q.
そうですね。言葉にしようとするともう分からなくなるんです。

 

A.
思考が外れていれば、いきなり実物だから、分からんということはない。

 

「パン!」(手を叩く)

 

これに何の理由もないからね。

 

みんな理由を尋ねるんですよ。「なんであそこで手を叩いたんだろうか」とか「どういう意味があるんだろうか」とかって、そういう詮索をすることってあるじゃない。

 

そんなことを教えているわけじゃないんだけども。

 

そしたら分からなくなっていく。


なぜ分からなくなるか。

 

「パン!」(手を叩く)

 

当然、これには何の意味も、理由も、まったくないんだから。

 

それを伝えたいだけだから。

 

分からなかった理由が、後付けでいろんな詮索をして探していたから分からなかったということだけを、そういう所が分かってくれるといいんだね。

 

Q.
説明しようとすると分からなくなるんですね。

 

A.
説明は難しいからね。

 

説明はいらんということを知ってもらえれば。自分のことだったらね。自分のことだけで。

 

他人に伝えようとすると言葉を使うから、そこがはっきりしてないと言葉使った時に分からなくなってくるわけでしょ。

 

後付けのものは一切いらんっていうことだけ。言葉も名称も何もいらない。

 

Q.
そうなってくると寂しくなってくるんですね。

 

A.
今までの感情とかいろんなものを交えた普通の生活からすると、単純すぎて寂しい感じはあるかもしれない。実感としては寂しいってことも当然あると思いますよ。でも寂しいっていうのも後付けの話でしょ。そしてその寂しいという方に手を付けると、何かまた余分なことを始める。

 

寂しいと思えたことは、紛れもなく、寂しいと思えたことですから。

 

「思っちゃいけない」とか「そのままにしとく」とかっていうような、そういう扱いをどっかでするじゃないですか。

 

「そのままにしとく」っていったって、次のことが起きたら、どうしたのか、コロッとなくなってしまうじゃないですか。

 

いつも話をしてることなんだけど、そうやって「考え事の中に入ってました」って言うけど、「こんにちは」って人が来たら、「はい」って返事した時にねえ、どうなったのっていったら、自分でなくしたりなんかしたんじゃなくて、いきなり「はい」って変化するの、コロッと。見事に。

 

だから「考え方を取る」とか「なくす」とかしなきゃならんてことが、一切、必要ないようになってる。