三菱ジープの断酒日記

三菱ジープの断酒日記

千葉県柏市在住、2021年7月3日になれば70歳です。中国在住の日本語教師だったのは昔。他のアルバイトも昔。騒々しい人生で家族に心配と迷惑を掛けてきましたが、やっと落ち着き……と思うと、また新しい「迷惑」が……。

Amebaでブログを始めよう!

 ひこさんと私にまつわる話は、今回が最終回です。なんかもう、「手の平上の柿ピー」はどうでもいいことのようになってきましたが、ちゃんと締めくくりはつけないといけません。たとえ、私以外の誰も興味を持たない……全くだ……としても、です。

 ひこさんとの交友を……そういう名前に該当するものが「あった」とするなら……失って学んだことの一つは、「ひこさんと私とは、違う」という事実でした。極めて当たり前のことです。大人が大きな子どもではなく子どもが小さな大人ではないように、ひこさんと私とは、違う。私を賢くしたって決してひこさんにならないように、ひこさんの脳みそをバカに改造したって、この私のようにはならない。

 私はこの「当たり前」について、パソコンの蓋を何日も閉じたまま、考え続けました。一つの感情が、海の波よろしく寄せ、返し、また打ち寄せ、また引いていきました。ある日その波の上端は私の胸に達し、次の日は腰の高さがせいぜいで、あとは引いていきました。干満差は大きくなったり小さくなったりしながら、なお私の中から消えないのです。「まず、この感情は何なのか」と、私は考えました。数分かかりましたが、わかりました。

 屈辱、でした。

 まずは、最初から私の持つ情報は、ひこさんから(たぶん他の誰からも)あてになど、されていなかったのだ、ということに、思い至りました。もっと早くからそれがわかっていたなら、最初から沈黙しているが良い。しかし今回ひこさんの「これはあなたの中国人の友達に頼るしかないかもしれませんね」という冗談に、反応してしまった。結果、その「友達」たる若き留学生をまで巻き込むことになった。仮に彼女がその経緯を知らなかったとしても、です。ひこさんと呼ばれたかつての私の友人は言葉上は私から情報を求め、私はそれを持ち合わせないもんだから留学生に求めた。しかし、しかし、ひこさんにとって、最初からそんなものは必要じゃなかった。ないしメールに添付した例の情報は、すでにひこさんが知る所だった。だから「二枚目はないの?」というコメントにもなったし、それ以降の完全無視にも、なった。

 私の情報は、はじめから期待されていなかったという他はない。

 それが、私が行き着いた「屈辱」という二文字熟語の、中身でした。

 やむを得ない。屈辱を与えたひこさんとの関係を維持する必要はそもそもない、メールには無反応を決め込めば良いのであります。しかし留学生とは、そうはいかない。彼女はおそらくは懸命に探し、探り当て、肉筆の手紙を寄せてくれたのだ。彼女への感謝を忘れるほどの恥知らずでは、私は(まだ)ない。でも、情報は有用に生かされはしなかったのだ、という密かな申し訳なさは、抱き続けざるを得ない。それは、次回彼女と会ったとき、私のマインドをちくちくと刺すだろう。私がそんなこと彼女に打ち明けるか、打ち明けないか、それには関係がない。私は懺悔と悔恨から自由になれない。ひこさんは私と私の情報を尊重しないのだから未だ見ぬこの留学生に対し感謝も尊敬も尊重も、するわけがない。だいいち「いる『らしい』」と思っているだけで、どこにいる何という名前の人間なのかも男女どちらかも知っちゃいないのだ。

 考えすぎ? いえ考えすぎかどうかは「考える人間」が決めることです。

 私の間違いとは、なんだったのだろう?

 ひこさんは「あなたのお友達に頼るしかない『かもしれません』ね」とは、言った。決して「教えてくれ」と言ったわけではなかったのでした。ひこさんの言葉を拡大解釈して「たまには知的にひこさんの役に立ちたい」という思いを無邪気に抱いた、そこに私の間違いがある。しかもこのことへの反省を、もう今後に活かすことはできない。

 あらゆることを教えてくれたひこさん。彼に、たまには情報をもたらす側に、まわりたい。

 なんのことはない、最初からできないことをできると信じ、やろうとしていただけだ。

 七〇才の、子どもだ。いや子どもというのはもう少し直感が豊かではないか。

 そこまで考えが及んだとき、玄関で音がしました。配偶者が帰ってきたようです。居間に入ってきた彼女が私に向かって、スーパーの商品を二点、差し出しました。「あなたに頼まれたもの買ってきましたよ。柿ピーと発泡酒の缶ね。全く変わったものを愛好するものねえ。それとも写真にでも撮るとか? スケッチの素材にするとか?」と、配偶者。

 いえいえ、見つめるんです、忘れず買ってきてくれてありがとう、と私。

 見つめるう? 柿ピーを? と、配偶者。

 ええそうです、と私は頷きました。「それを見つめてると、何かがわかるような気がして」。

 言いながら、もうはるかな昔なのだ、と感じていました。公園のベンチで手の平に柿ピーを載せ、スーパーで買った発泡酒を飲む、そういう場で形式でしか、話せないことがあるような気がするんです、と私は言いました。当たり前だ。赤坂の「果林」でする会話と、例のこってりラーメンの「天下一品」でする会話とが同じであるわけがない。安倍首相はオバマ大統領をすきやばし次郎というくそ高い寿司屋に誘ったらしいが、それは会話内容がその場所を必要としたということだ。ないし、話が「ない」から場所が必要だったのだ。

 私の希望はついに実現することがなかった。ひこさんは冗談だと思ったのか、と過日は考えたけど、でもそうじゃないのでしょう、ひこさんはそういう図とその図が産み出す関係性を、拒否したのだ。ないし。

 手の平に載せた柿ピーがフィットするような「話題」を、拒否したのだ。

 配偶者が買ってきてくれた柿ピーと発泡酒をトートに入れ、家を出ました。

 「アナタどこへ行くの? 少し寒いわよ」と、配偶者。

 「公園のベンチでこれ飲むんです、で、歌うたうんです、いのち短し、恋せよ乙女、って」と、私。

 歩きながら、近くに住む娘に、メールを送信しました。娘からの返信はメールじゃなくラインでもなく、音声電話でした。

 今から柿ピーをつまみに発泡酒飲まない? 出てこられない? と、私。

 なになに意味わからない、と娘。すぐ近くに若菜寿司さんあるじゃない、そこじゃダメなの?

 私は、そこでする会話と、公園のベンチで柿ピーつまみながらの会話と、おのずから別なような気がするんです、と言いました。娘は、「あのねえ」と言ったあと、こう言いました。「そんな話題を持ってるって、すっごく贅沢なことだよ」。

 ぜいたく? と、私。アナタ、今、ぜいたくって、言った?

 そう贅沢。そう思わないの? と、娘。

 私は返答につまりました。

 残念ながら落日が近づいていました。娘は※※くん(十か月児の名前)を抱いて出てくることになります。風邪を引かせるわけにはいかないんだなぁ、と私は思いました。

 私は、ぜいたく、という言葉の意味について何度も何度も考えを反復させました。

 わからん、と私の脳の左側が言いました。

 わかってたまるか、と、右側が言いました。

 

 以上であります。

 

 

 

 ひこさんと私の関係ですが、ある日、突然「失われる」ことになりました。関係の断絶は私だけが意識していることかひこさんも同時に感じているか、わかりません。私一人の独断かもしれません、でも同じ事です。

 帰省の日程をはじめとするひこさんとの連絡はメールか、万年筆や細筆を使って墨で書く手紙のどちらかでした。まれに電話ということもないではなかったのですが、彼も私も電話というしろものが嫌いでした。電話というものは誰から誰に対してであれ、さほどの緊急性がない場合でも暴力的に一方的に鳴り散らかし、さぁ出ろすぐ出ろいま出ろまず出ろと急かしまくる、そのシステムが我慢ならないのです。ひこさんが私と同じ感想を電話に対し持っていたかどうかわかりません。長い交際の中でたぶん一度か二度しか……約束の食事会場に着いたのだけど情報と少し違う、ここで間違いは無いのかというような問い合わせの際に、です……利用したことがないのですが、ひこさんはきまって非常に不機嫌な声の調子で、応対しました。まるで、あなたの提出した確定申告書に深刻な間違いがあった、と聞かされたようでした。

 ひこさんと私などは、便箋を使い、肉筆で通信文を書き、封入して切手を貼って出す、最後の世代だったのかも知れません。その私達にしても情報交換の七割か八割、メールシステムに頼っていました。で、そのシステムですが、基本的にオープンな、同級生全体を対象とする広がりを持っていました。とても良いことだと思います。もちろん、呼びかけ、創ったのはひこさんです。私は一も二もなく喜んでこれに参入し、利用してきました。仮に用事はひこさんだけを相手にしていても、内容は、全員に見て貰って構わないのです。そのように気をつけて言葉を選べば良いのです。必要なときには相手をひこさんに限定して送信することもできました。

 富士の裾野に住む同級生はその写真を送り、旅行と登山の好きなもと外交官は羅臼岳の写真を送り、食通の人間は猪苗代湖近くの宿で食べたというサンショウウオの写真を貼り付けてきました。誰かが、そりゃサンショウウオてんじゃない、イモリと呼ぶのが良いよ、とからかいました。私も、首都に降った雪の写真などをメールに添付してみんなに見て貰いました。

 ある時期、ひこさんは中国の詩文になじみ、その筆写を老後の趣味としていました。ひこさんに「老」後だという自覚があるかないかわかりませんが。自分の臨書をデジタルカメラで記録し、システムにあげてくることがあり、そういう時には同窓生がわれ先に称賛の言葉を送信するのが常でした。お世辞ではなく、ひこさんの臨書はそれはそれは美しいのです。詩文に限らず、老子の「道」のなになにという書、孔子のどれどれという戒め、そのようなものも、ありました。ひこさんのおかげで、「寝ぬるに屍せず、居るに容らず」のような、対人関係維持という上で有用な格言についても、知ることができたのでした。

 ある日ひこさんは全員受信前提のメールに、こう書きました。

 「次のような七言絶句の転句と結句を見つけた。資料が不備で起句と承句が見当たらない。誰か知らないか」

 メーリングシステムは、しばし、沈黙を守りました。ひこさんが知らないことを凡百の同窓生が知るわけがない。すると何日か待ったあと、ひこさんは私を名指しし、「これはあなたの中国のお友達にお願いするしかないかもしれない」と、書いてきました。

 今にして思えば、それがひこさんの冗談なのか本気で絶句の前半二句を知ろうとしているのか、ゆっくりと考えるべきだったのです。私は知的な用件でひこさんが私を「頼った(あえてその言葉を使えば)」のは六歳で小学校入学して以来、これが最初だ、記念すべき最初だと思い、中国人の留学生にメールを書きました。絶句の後半二句を書き、この前半を知りたいのだ、調べてもらえるだろうかと書いたのです。ひこさんは私の「ともだち」と言いましたが、もちろん友達ではありません。中国の南方の省の有名大学を大変な成績で卒業し、兵庫県にある国立大学に留学、修士を終えても帰国せず茨城県にある国立大学の博士課程で日本の中学・高校の家庭科教育について研究する人なのでしたが、さすがの才媛も即答はできなかったようでした。二週間を経て、ようやく私は彼女から封書を受け取ったのですが、私がみたところ、しっかりと彼の要望には応えているもののようでした。絶句を構成する四句全体が書かれ、簡単な解説が日本語で記されていました。北宋の時代に江西省宜州で詩作にふけった黄庭堅という役人が作者で、題名は竹枝詞その二、とんでもなく険しい道を自分は歩いているが、この地方を都から遠い地などと言わないでくれ、どんな僻地もあっても道は皇州とつながっているのだから。……それが大意のようでした。彼女からの手紙は肉筆でしかも簡体字だったので、間違えてはいけないと思い、手紙をスキャナに掛けて送信しました。B5、一枚です。ひこさんが求めていた情報は、手紙の一枚目にしか、存在しないのでした。たしかに情報量は多くありません。自国の文化に詳しい才媛であっても、多くの情報はとれなかったのです。

 それでも、情報は一応は足りているはず、と、私は解釈しました。私はひこさんの返信を待ちました。もちろん同じメールを、システム内の誰だって読むことができます。

 数日してひこさんからの返信があったのですが、唖然としました。

 「二枚目はないの?」

 中国人留学生から私に宛てられた質問の回答は、繰り返しますが、封書で、もちろん肉筆です。それは見ればわかります。

 「二枚目はないの?」

 これは本当にひこさんが書いている返信なのか? とまずは疑いました。少なくとも、ひこさんが求めている要求は満たしてはいないのだ、それはわかりました。しかし私ならこうは書かない、と思いました。誰に対しても無礼で世間の常識と相当に齟齬をきたしているこの私でも、「回答ありがとう」「依頼してくれてありがとう」「情報アップロードありがとう」から書き始めるのだ、ということぐらい、知っています。誰かに何かを依頼し、得られた結果が当方の希望には足りない、そんなこと私の人生にだっていくらでもありました、でも。

 「二枚目はないの?」

 私は気を取り直し、二枚目はないのです、と書きました。「二枚目は純粋に私信です。がらりと内容が変わっています、次はいつ会えるのか、どこで会えるのか、という内容でした、ですから情報は添付のものがすべてです。」

 もしかして、そこでひこさんの、何でもそつなくこなしてきたひこさんの、良識に基づく謝辞が、送信されるのかと思いました。しかし、ひこさんの次のメールは全く漢詩のことにも私の知己である留学生のことにも、そもそも私に、触れられてなく、相手にしてなく、「先日臨書を額装したら一万一〇〇〇円かかった、高いか安いか?」という写真付きのものでした。私はがっかりして、心の底からがっかりして、パソコンの蓋を閉じました。

 いらい、ひこさんにも、同窓生を対象とするメーリングシステムにも、私は関与していないのです。

 

 で? 手の平上の柿ピーの行方は?

 

 

 次回、帰省するその日にちが確定した時、ひこさんへの電話で、勇気をもって言ってみました。

 ひこさんが、常勤の取締役ではなくなったと確認した上で、「昼間っから、柿ピーを手の平に載せて、児童公園のベンチに座って、スーパーで買ってきた発泡酒かビールの五〇〇ミリ缶を飲みながら話す、ということはできませんかね?」

 冗談だと思ったのでしょう、ひこさんは朗らかに笑ったあと、「そりゃまたなんで」。

 どんなにひこさんが心やすくつきあっている小学校時代の同級生でも、君の案内してくれるお店は料金ばかり高くてさっぱり美味しくない、煮物は醤油辛いしそもそもその醤油の熟成が調理場でちゃんと検証された経過がわからないし、刺身はカドが寝てるし二人とも四捨五入すれば七〇才だとわかっているのに強肴は硬いの出すし揚げ物は一度他の個室に間違って持っていったんじゃないかと思われるほど冷めてるしそれをカバーするためか液(つゆ、です)が過剰に熱いし……などと言えるわけがありません。それに、どんな作品でも、褒めるよりけなす方が楽で、それは美術工芸作品でも絵画でも映画でも小説でもみんなそうで、だからこそ何かへの感想を述べる際に悪口から入っちゃいけないと思っている小童なのですから、相手が仮にひこさんじゃなくても、口に出すことはできないどころか「匂わす」「言外に含ませる」のも……仮に「うっかり」であっても……,破滅的な間違いです。

 私は一生懸命言いました、いやぁあの、いつも案内してくれるような高級でしゃれたお店でできる会話と、柿ピー肴に公園のベンチでできる会話と、そりゃ別々なんじゃないかと思って。

 ひこさんは二秒か三秒、受話器を握ったまま沈黙しました、そしておもむろに、「なるほど泉仙とか嵐山錦とかでは、のどかな『思い出話』はしにくいかもしれんなぁ」。

 私はほっと安心し、そうそう、それにお金も毎回、新幹線代とギリギリの予算で来てるし、と嘘をつきました。その嘘にひこさんが気づいたかどうかはわかりません、話の決着は、じゃ公園のベンチと高台寺菊乃井と、その中間のお店をとっておくから、ということでした。

 当日。なるほど、ひこさんにしては珍しく、居酒屋さんでした。なんでももともとは麺類を提供する観光客向けのお店だったようで、なるほどメニューはこなれたようでこなれてないようで、壁を見ながら二人で愉快な感想を述べ合いました。ガラスの小鉢にモズクを入れ、へぎ柚子を浮かべて四〇〇円とか、キュウリの小口切りと固く煮た穴子とを合わせて六五〇円とか、非常に安直でそしてたいそう美味しいのです。私の箸の運びを見ながら、いつもより嬉しそうや、とひこさん。私はずるずると絹豆腐と納豆の和え物をすすりながら、いつもと違って緊張していませんから、と言いました。で、実は、と、ひこさん。

 なんですか? と私はひこさんのほうへ耳を寄せました。彼は声を珍しくひそめて、「実はこの店選んだのは大将の雰囲気なんや」。

 なるほど、と私はうなずきました。大将の醸し出すオーラについては、私も気づいていました。耳にはピアス用の穴が軟骨部分にまで及んで五つか七つ、空いています。もちろんその全ての穴にピアスが収まっています。更に声を小さくして、「やーさんみたいやろ?」とひこさん。「そう言って言えないこともありませんね」、と私。

 飲むと、普段は言うまいと気をつけていても何か微妙なことを言ってしまう、そういう問題点が私にはあります。たとえば例の「なかまさんの胸、凝視事件」。あの時私の依頼に応じてひこさんは瞬時に謝罪を選択してくれたのですが、それはなかまさんの、ひこさんへの恋情を見抜いてのことだったのか。そもそもなかまさんの「人の胸ばっかり見んとってよ」は、周囲に特に女子連中に、ひこさんに見つめられたことを自慢したかったゆえだという風に小童は感じ取ったのだが、その点においてひこさんと小童とは一致しているのか、どうか。……いやいや、いやいや、下らないことだということは百も承知でした。そんな「下らない」ことを、二条城を窓外に鑑賞しながらごはんをいただく「松粂」さんで、ハモ落としを食べながらしゃべれるわけがありません。沖縄のモズクでないといけないのです。餃子一皿五五〇円でないといけないのです。私はいつもの倍、飲んでしまい、ひこさんに後を支えられながら急な階段を「やっと」昇りました。当夜のお店は地下やや深い所にあったのです。ちなみにひこさんは体力という点では一流のものを持っており、今なおサッカーチームを「自分で」主宰し、監督し、必要とあれば九〇分を走りきる、という怪物なのでした。「ちょっとそこまで自転車漕いでくる」と奥さんに言って出かけ、気づいたら奈良の美術館前やった、という話をして私を笑わせた時、彼はもう七〇才に「かなり」近づいていました。体力には何の謎もありませんが、サッカーチームを……たとえ素人ばかりの草サッカーであったにしても……主宰する資金的裏付けは、いくら考えてもわかりません。練習場を借り、試合会場を借り、レフェリーを雇い……という煩瑣な作業のどこにも、応分の資金が要求されていると思います。

 余分な話はさておき、楽しい、得がたい夜でした。私はいつものように帰省の日に姉を見舞い、その夜か次の夜にひこさんと会い、出立の前の日にもう一度姉を見舞う、という定型化された帰省スタイルをとっていたのですが、どういうわけか次の帰省の時には食事会場はもうかつての「格式」に戻っていました。そして、柿ピーと缶ビールを手にして児童公園のベンチで旧話に花を咲かせるという夢の宴は、実現することがありませんでした。

 私の我が儘かひこさんの不注意か、それはもう「起こってしまった」、なかまさん胸事件よりはるかに深刻な「わるいこと」は、もう、起こってしまったことなのでした。私の方から「二度と連絡などとるまい」という決意ないしあきらめのようなものが、意思疎通の不備が、露呈する、そんな事件があったのです。ひこさんがそれに気づいたかどうか、今のところわかりません。今わからないのだから死ぬまでわかりません。私は膵臓に癌病巣を抱える人間です。手術で病巣を切除したら半年で再発し、それから一ヶ月で肺への転移を告げられてしまった、先の見えている病人です。「死ぬまで」と言ったって、それは明日かもわかりません、今夜かもしれないのです。それなのに、あるいは「それだからこそ」ひこさんの「不注意」ならびにその不注意を引き出してしまった自分の複数の要因に基づく至らなさが、残念でならない、という前に、矛盾しているかもしれないのですが、「死ぬまでこだわらないといけないこと」なのでした。

 

 この詳細については、明日(あるいは明後日)の報告となります。