■2017年5月23日(火)〜5月28日(日)
小西博子個展
「東京に抱かれて、描く。」

 

 

@Gallery Conceal Shibuya/Gallery:B&C

(http://galleryconceal.wixsite.com/gconceal)

 

〒150-0043
東京都渋谷区道玄坂 1-11-3 第一富士商事ビル4F
TEL/FAX:03.3463.0720
http://galleryconceal.wix.com/gconceal

 


※JR渋谷駅西口南改札を出て、東急プラザ(現在工事中)と横浜銀行の間の道[渋谷中央街]を直進。
右手前方に「雀荘(すずめそう)」という赤い看板が見えたら、そのビルの4階です。

 

 

 

□11:00-23:00(最終日21:00)
入場無料/販売作品あり/期間中在廊

 

 

 

《オープニング&クロージングイベント》
◇オープニングイベント
”今日の歌をトートバッグに”
日程:5/23(火)
時間:20:00〜
入場:¥2,000-
出演:
fasun(シンガーソングライター)
小西博子(即興ライブペインティング×トートバッグ)

 

FBイベントページ
https://www.facebook.com/events/1442820232473459??ti=ia

 

◇クロージングイベント①
”即興音楽に抱かれて、見る”
日程:5/28(日)
時間:14:00〜/15:00〜/16:00〜(各20分)
入場:無料
出演:
中村亮(ドラム)
高橋佳輝(ベース)

 

 

 

◇クロージングイベント②
”即興音楽と即興描き、原点”
日程:5/28(日)
時間:19:00〜
入場:¥2,000-
出演:
中村亮(ドラム)
高橋佳輝(ベース)
小西博子(即興ライブペインティング)

 

FBイベントページ
https://www.facebook.com/events/212311499272788/

 

 

□ご案内
画家小西博子の個展。今回は、未発表の2016年〜2017年絵画をメインに、手がけた新作衣装も同時展示いたします。
昨年、好評を収めた衣装ペインティング展と同じ場所Gallery Conceal Shibuyaにて開催させていただきます。
東京に生まれ、東京に抱かれて、東京を抱きしめて描いた作品たち。
画家生活の一区切りとなる展示にしたいと思っています。
みなさまのご来場を、心よりお待ちしています。

 

□お問い合わせ
・Gallery Conceal Shibuya(http://galleryconceal.wixsite.com/gconceal)
TEL/FAX:03.3463.0720
MAIL:conceal@renovationplanning.co.jp

 

図星

テーマ:


「ラッパーの言葉は本来ボクサーの拳ぐらい危険なもののはずだ。」

これは絶という作品で、ほぼアカペラだが最も反応があった「絶望」という曲の一節である。


良い映画においての嘔吐描写は、HIPHOPアルバムの2曲目ぐらい重要で、芸人のグループ名と「ん」ぐらい切り離せない関係である。

今日はそんな切り離せない関係について書こうと思う。


僕にとって切り離せないものとは、やはり言葉だ。

話す機会があると非常に珍しがられるが、僕は普段言葉を話す際に、一度頭の中で文章を作り、自分なりにジャッジしてから口にするという少し変わった癖がある。

いつからかは覚えていないが、物心がついた頃にはそうだった。

これは何も凄いことではなく、ただのマイペースの賜物かとも思うが、その場に最も適した文章を頭で作り吐くか吐かないかを決める。

そのスピードは、普通の人と違和感なく会話出来る程度には自然となっていった。


なので、例えば怒るべき状況でも、頭の中で形成された言葉は、口にする前には自分の中ではセリフ的になっていて、なんだかその言葉を吐く行為自体が馬鹿らしく思えてしまうのだ。

「ブッ殺すぞ!」と同時に「いや捕まるの嫌ですし、まずそれは無理でしょう」という言葉が覆い被さる。

であれば口にしなくても良いという結論だ。


怒りに任せて中途半端に言葉をいくつも投げつけるのであれば、的確に最も相手の感情を逆撫でする言葉を一つ選ぶ方が燃費も良い。

お互いの精神衛生上もそれが良いと僕は思う。


人の感情を刺激する言葉を使う事に語彙の数はあまり重要な意味を成さないが、言葉で人を傷付けるには覚悟が必要である。

目に見えない傷は、完治は難しい。傷付けるのであれば、その人の将来に常について回る覚悟は最低限必要であるのだ。


そんな性格が影響してか、普段は怒りに打ち震える様な事はほとんどなく、日常で声を張り上げて激昂する機会など皆無に等しい。

相手と言葉を選びながら落ち着いて話をする。

それは特徴でもあり、少なからずコンプレックスでもある。

人混みの帰宅ラッシュ、駅で喧嘩をしている酔っ払いが、何故か羨ましく思える時がある。

後先を考えず、今その瞬間にフォーカスし、あんなに感情を剥き出しに出来るのは、僕には完全に欠けた感覚なので、滑稽ではあるがそれと同じくらい関心もする。


しかし、ごく稀に抑えようのない怒りに我を忘れて、危うく相手を傷つける手前まで行く事がある。

数年に一度程度。

いや、数年に一度は言いすぎだ。

確かに稀ではあるが、年に一度ぐらいはあるかもしれない。


それは、大切なものを土足で踏みにじられたと感じた時である事はまず間違いないのだが、

踏みにじられた分を焼き印の様に相手の心、そして将来に刻み込みたいと心底思い、考えられる全ての言葉や文字の配列、行使可能な行動を総動員して相手を如何に傷付けるかを考えるのだ。


しかし、その様な感情を覚えた出来事の後、その時の事を今一度冷静に振り返る機会がある。


その時に思う事は、言い方や、やり方に問題はあったにせよ、殆どの場合、相手の言葉は少なからず自分の図星をついているという事だ。

認めざるを得ない。図星だ

Aは一人じゃない

テーマ:

基本的に言葉というものは人が人に対して発し伝えるものであり、活字も含め誰もが操る事が出来る。


しかし正確に操る事が出来る人間は驚く程に少ない。それは同じ言語を使う人間同士でも、明らかに差がある。


特に今はインターネット(特にSNSの普及)により、発してから届くまでがより速くなっている。


Twitterのリプライ、Facebookのコメント、各SNSのメッセージ機能など。


例えば有名人にメッセージを送り、返っては来ないにしても、本人が見る可能性は決して低くはない。


そのように対象物が明確な場合はとても便利というか夢があるように見えるが、


今回はその対象が不特定多数に当てはまる場合について書く。


それは名を名乗る事により、逆に匿名性が強化され、ニックネームであれ名を名乗るという大義名分がなんとなく保険になる、非常に矛盾した心情である。


つまり対象を不確定にしたまま、あえて自分の意見を投げつける事が可能な訳だ。


そしてそれは時に発信者本人の意思と違う方向に飛んでいき、結果、人を傷つけ、それは記憶に残り、活字は歴史に残る。


歴史というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、活字は歴史だ。

記憶という大海をいつまでも泳ぎ続ける事が可能な立派な歴史だ。


例えばyoutubeのコメント欄。

アカウントを持っている事のみが唯一の信用であり、部が悪くなれば消せばいい。

そして新しいアカウントをまた作ればいい。


例えば影響のある人物のTwitterでの一言。

この影響ある人物とは何も有名人だけを指す言葉ではない。

地元の兄貴分、仲良しグループの一人などある程度何にでも当てはまる。


後述のTwitterの一言をもう少し噛み砕いて例にしよう。


ある日、人物Aが「新しいスニーカーを買った、かっけぇー!」と写真つきで呟いた。

するとその直後にAと少なからず関わりのある人間Bが「ダサいやつは何してもダサい」と呟くとする。これはあくまでも例だ。


おそらくその関わりのある人間Bの一言は、誰に向けて放たれたかは本人以外は知る由もない。

しかし、知る由もないからこそ、Aは非常に気持ちの悪い思いをする事になる。


まさか「それは僕の事ですか?」と聞くような事ではないし、まともな返答があるとも限らない。


そして、もしその選択を自らの選択肢に入れれば、恐らく真面目であればあるほど(むしろ真面目であればあるほど選択肢に入れやすい)、俯瞰した視点からの自分に「自意識過剰!」と煽られる事だろう。


この際のAが感じる気持ち悪さ/居心地の悪さに比べると、Bは至極気楽である。


仮にBのその一言がAに向けて書かれていたとしても、前述の通りBしかその事実を知らない。知る方法がない。

そして、もしも聞かれたら「違います」と嘘をつけばいいだけの話だ。


つまりAはこの話題に踏み込むにつれて精神的に不利益を被るが、Bとしては特に何も気にしないどころか、もしそれがAに向けた言葉だとすれば、むしろAが気にすれば気にするほど狙い通りなのである。


しかし、ここでこの発言に対してのBは、「Aは一人じゃない。」ことを果たして理解しているだろうか。


Aは一人じゃない」というのは、Bがした不特定多数に当てはまる発言及びAが被った精神的ダメージ(分かりやすくいうと勘繰り)の一連の流れは、多発的に他のAを生み出している(生み出していく)可能性があるという事だ。

しかもAを生み出している可能性というのは、半永久的に”可能性としては”残るという意味だ。


そう言った意味では、実は最も悲惨であるのは、人の気分を害し続ける可能性を孕んだまま、それに気付かないBかもしれない。


勿論それはもっと幼稚な事でも起こりうる。

自撮りの写真をInstagramにあげた直後に「ブスマジ消えろ」と自分のタイムラインで見たら、気にする事では無いにしろ、少なくとも良い気分はしないであろう。


5W1Hというのは情報を伝達する上でやはり重要で、そこを無視したまま、それが本人本位であれそうでなかれ、不特定多数に投げかける事というのは非常に危うく、発言権を表面上は誰しもが平等に持てる(という程の)現代にこそ必要なものは最低限のモラルではないだろうか。