いわゆる認知資本主義 nognitive capitalism はマルクス主義的なアプローチ方法での自由主義的資本経済の行き過ぎを資本主義の終焉ととらえるところから出発するようだ。



資本主義は20世紀になっていくつかの恐慌を引き起こし二つの戦争を経験し、その後自由主義と社会主義的国家の介入による福祉国家の経済政策がとられたが、ベトナム戦争で疲弊したアメリカは資本主義の黄金時代が1970年代ごろに限界に達したとみられた。アメリカは経済を回復する政策として取のがレーガン大統領の政策であった。この政策の展開で「負け組・勝ち組」「ゼロサム」理論などが取り上げられた。レーガノミックスとかサッチャリズムとして政府の介入を最小限に抑えるという政策が「新自由主義」と呼ばれるものと展開された。



その後、アメリカのサブプライムローンに端を発した一連の金融危機で資本主義派は終焉を迎えるかのような議論が飛び交った。

その一つが認知資本主義であったようだ。行ってみればアメリカ型の大量生産・大量消費の世界が終ったということであった。

イタリアの学者がマルクス主義的な解釈のもとで造り出した理論である。

現代思想2011年3月号に特集として「認知資本主義とは何か・・転換する世界経済」というのがあってその中の論文をもとに「Gさんの政経問答ブログ」で批判的に解説されている。

<認知資本主義とは何か。一般的には産業資本主義に対し、非物質的な労働が大きな比重を占める資本主義と言われる。だが非物質的な労働はいつの世にもあったし、比重の大小は必ずしも質的な差異を意味しない。根本的には金融資本主義段階での労働力の編成と、資本蓄積の様式に関する言説と把えてよいだろう。ただしこれらの言説は知的労働・感情労働の「大きな比重」を重視するあまり、労働価値説や価値法則を放棄し、金融資本主義の蓄積様式を十分に説明できない結果になっていると思える。>

これはGさんのブログからの引用である。

正直マルクス用語で現代を語ること自体がすでに問題があるように思えるけれど、認知資本主義はマルクスの労働価値説を放棄しているという点で、私は受け入れ難い理論だと思う。 この議論の解説を読んでもなんの感動もなかった。正直言ってあまり意味のない論議に思えた。


私が知らなかっただけのことであって、資本主義そのものの存続や社会主義的な革命のを今更論じても意味がない。

要するに製造業主体の産業資本主義から知能的な産業形成の資本主義に変わってきて、情報・ネット・ソフトウェア企業、金融という従来の肉体労働的な生産でなくて頭脳的な労働が主体化している現状の先進国の資本主義をとらえているにすぎないように思える。



人間が頭脳であれ肉体であれ、その両方であれ、商品の生産にかかわる以上、その商品に人間の労働価値が投影されていないとすれば、いったいそれらの商品は単純に交換価値しかないのかということと、利子生み資本が利子を再生産するプロセスだけで金融をとらえて論じても意味がない。



マルクスも労働する人間のかかわりを問題にしていたのであって、唯物的に金融危機を説明しても何も見えてこない。これ以上認知資本主義について論ずることはしない。



本題に入る。私が誤認したconscious capitalism というのは、まったくそれらとは関係のないアメリカの企業経営から生まれてきた思想による理論である。

facebookconscious capitalismのサイトがあるので参照してほしい。

http://www.facebook.com/consciouscapitalism



ここに言う「意識的な資本主義」というのは、資本主義の担い手の思想を論じたものであり企業の社会的責任から生まれた理論である。

言葉遊びではなく実践の書であることが重要なのだ。

企業が大事にしなければならない4つのTenet

1つめは、より高い意図・目的をもつこと。

2つめがステークホルダーの統合、従業員・取引先・地域社会などの利害関係者のこと。

ステークホルダー=エコノミーという用語は株主shareholderよりも利害関係者を重視すべきという経済。

3つめに、意識的なリーダーシップ

4つめに、意識的な企業文化とマネージメント

企業家たちはそれらの4つの意識を明確に作り上げる、または抱き実践することを解析している。

それらの企業家によって支えられる資本主義ということなのだ。



私はヴェーバー的視点で見るので貨幣経済による合理的な資本主義が制度としてこれ以上変わることはないと思っている。計算可能性がどれだけ確実性をまし、不可実性を減ずることができるかということにかかわっており、金融危機を造り出したアメリカの金融業界の営利主義はヤーコブフッガーの営利欲と変わるものではない。それすらこの資本主義の制度を壊すものではなくて、制度から退場を迫られたのは企業であった。

認知資本主義が無意味に思えるのは資本主義そのものの制度を分析しているものではないからだ。

この本に書かれた内容は現代に生きる人々に訴えるものがある。

また資本主義の制度を支えるものがなんであるかと言えば、それらは原始的な経済や経営の知識や法律、労働規律、教育のレベルなどがなければ支えられないのだ。

アフリカとアジアと中近東やインドなどの地域の社会的なレベルの違いが資本主義の形を変えている。しかしその原理は共通なのだ。

マルクスは人間の労働価値がブルジョアージーによって搾取されていることを理論的に実証して、そういう社会を否定した。しかし、それは否定しきれないことなのだ。

ソビエトも中国もそのユートピアを放棄した。そうではなくてマルクスが求めた世界は、ゼロサムの世界ではなくて、ウィンウィンの社会の形成にかかわるのだ。

ヴェーバーは生産手段の独占ではなく、消費の平等、むしろ分配の平等をすることでマルクスの抱くユートピアを見ていた。

いずれにしろ「意識的な資本主義」は感動の書であった。

その著者がインド人であって、彼がインドのビジネス社会でこの理論を展開するならば、インドには新たな可能性が生まれてくるだろう。