40年ぶりの恩師との再会  

2012-05-18 マンションの花壇づくり
投稿日:2012年05月24日 06:26 カテゴリー: 未分類


5月23日鎌倉プリンスホテルの和食レストランで、大学の先生に40年ぶりの再会を果たしました。参加者は7名。63歳から66歳の元学生です。
内田芳明教授、マックス・ヴェーバー「古代ユダヤ教」の翻訳者。岩波文庫版が出ています。
私は神奈川大学に昭和39年入学、43年学部卒、46年に修士課程修了(1年休学した)。39年に経済史の講義を聞いて、3年からゼミ生となった。以後先生に師事したが、語学力のなさに挫折、学業の道をあきらめた。
その経緯があって、先生にふがいない弟子としてお詫びをいいたかった。院生時代に結婚をして、先生の期待にそわなかった。
当時、山岳会に所属していて、仲間を冬の硫黄尾根でなくし、その捜索に3回出かけたことがある。
今日集まったゼミの仲間から聞かされたのは、事情をを知らない先生が「自分の学生の時にはそんなに山に行く時間はなかった」と言われていたということだった。それだけ学業に励めてというお叱りだったのだろう。
厳しい先生だった。今日も全員がお会いするまでは全員が緊張していた。
私は大学では出会ったことがなかった一番若いS君は、事前に文章をしたためて、先生の前で読み上げた。文章にしなければ話せないからというほど、緊張していたのだ。それは先生への謝辞であった。全員に共通する思いを述べてくれたのだ。
2時間はあっという間に過ぎてしまったが、先生も久しぶりにウェーバーの話をされたと思う。
我々が今もってウェーバーから離れず、先生の著作を読んでることに奥様は驚かれていた。そして先生もおそらくこういう学生がなお40年の歳月を経て現れて、先生に感謝の言葉を述べられたことに、驚きと教師冥利をか案じていただいたに違いない。
でもそれは間違いない事実なのだ。我々一人ひとりが少なからず、その影響の中で人生を過ごしてきた。それもこの年齢になったからこそ言えることなのだ。
先生は88歳だ。それでも2008年に本をだされ、また今月に一冊出るという。この学者としての意欲、大いに生きざまとして学ぶものがある。歳を重ねても経験に甘んずるだけでなく、なお新たな生産的行為を継続するところに敬服する。

私はこの日、先生に意外なことを聞かされた。
「女子学生が私のところに来て、先生、彼はだいじょうぶですか、授業中、先生にあんなにつかかっていて、と心配していたことがあったんだよ」
「え~、そんな!」
ゼミの授業中に、先生にたくさん質問などしていたなんて記憶にない。
「君は優秀な学生だった」
思まずわが耳を疑った。先生がそういう印象で私をみていてくれた。初めて聞かされた褒め言葉だった。これはこの歳になって嬉しいことだ。
私の人生を語るときに、宝物の言葉が二つあった。イトーヨーカー堂の伊藤社長から会社を辞めるときに、「お前とは心が触れ合ったように思う。いつでも戻ってきていいぞ」という言葉。労働組合の委員長から「あんたの悪口は同僚と部下から聞いたことがなかった」という言葉だ。それに一つ今日先生の言葉が加わった。

初めて聞かされる逸話がいくつもあった。
この日、先生は昔の鋭さは失せて、いいおじいさんになっていたが、ウェーバーのこと、当時の大塚史学のことなど、学問的な話をされるときは昔と変わらぬ雰囲気があった。先生は横浜国大に移られ、退官してから中部大学の教授をされていた。
「先生、国大に移られてから、我々のような出来の悪いのと違ういい学生に出会われたでしょう」と質問したら、しばらく間を置いて、
「君たちがよかった、時代だな」とおっしゃられた。

我々が学生だった昭和40年代、1970年代、学園紛争や70年安保に日本が騒然としていた時期、「生き方が下手だった」と回顧される先生に影響を受けて、下手な生き方をしてきたが、間違いなく青春時代、先生と、またウェーバーと真剣に格闘していた時期があったのだ。それは幸せな青春だったのだ。
改めて自らの人生を振り返ると、挫折の繰り返しではあったし、上手に生きてこられなかったけど、自分の人生を幸せな人生として総括できるだろう。
そして今、山という、青春時代の忘れものと向かい合って頑張ってる自分がいる。
チベットの子供たちのためにももう少し頑張りたい。
そのためにも元気でいることだ。帰りの江ノ電の車内で、仲間と歳をとるということは肉体的なこともあるけれど、気持ちが老けたらいけないんだという意見で一致した。みな大満足の時間を過ごせたのだ。