世話になっている 肉桂先輩

 

この季節に何度か来る、彼岸の空気に似た、祈りのような有難くて幸せで切ない様な、春の、暖かく柔らかい神気がある。

 

神永家に生まれた私が一番最初に困り、追っていった空気感。
「悲壮」というテーマから、少し探ってみる。

以下

 

お祖母さんが廊下で内職をしながら私にこぼす愚痴、
お客さんにこぼす、どうしょうもない悲しみ。
何とかしてあげたくなる、素直に、大事にしたくなる、
一生懸命生きて来た、真面目な人の大事な思い。

言わずにはいられない気持ちが解った。今ではもう、全部許している。
ただ、その空気感、思い癖になっているそれを外す為に辿っていかなければならなかったのであれば、
あまりにも長い時間囚われて来たもので、
これがどういう事か分かりかけている。

何となく、この感じ。

  
悲愴の感じは、意識した途端消える、独特の空気感があるけれども、

 

改めて、悲壮に思う、という「もの思い」は、区別したいもの。

自分にとっては逃避の一種でも、あった。
綺麗で、悲しくて、誰もが優しく寄り添ってくれる。
どこまでも悲しくなっていったらどうなるんだろうと、それを突き詰めて見てみた事があった。

そしたら、行き止まりだった。

未来はなかった。

 

これは、世間で言う、タバコやお酒や漫画の様な作用をもするのだな。
子どもの頃、それを知った。


幼い頃、全部が 何か芝居めいたものの様に思っていた。
世界が2重に層になってしまっていて、自分が芝居をやっていた事に気が付けない様になっていくことを何度か思いながら、
母親の恥ずかしいという感覚を体が覚え込んでいて、自動的にその様に筋反射するようになっていった。

最初は冗談まじりで、真似して見せる事で、受け入れているという こちらの愛を示す行動の一つだった。

 

この時とても強い意志がはたらいて、注意深く自分の変化を見ていた。

もっと遠い昔に、ここをよく見る様に、自分に約束したような事を一つ一つ辿る様な

 

大人の習慣の真似をする事が、とても自然に体に着くので、
人前で平気で唄ったり自分の内側に添って自然に動く事が出来なくなっていった。
 
10代になったら、思い描いた様に芝居をしようとすると出来ない自分がいた。
隙間がいつの間にか見つからない。

 

祖母から離れ、可哀そうな空気を嫌いながら (今は嫌っていません。)
自分の中にしっかりと根着いたそれに、うっすらと気が付いていた。嫌な臭い(空気感)がすると。

周りから求められる事をこなす事がどんどん困難になっていった。

丁寧に自分の意識を合わせて追っていく時間が取れなかったからで、
要するに、外側の要求にいつも気を使って、自分はさて置き後回し が習慣になっているから間に合わないのだ。


それは時が経つ程に、本当に手に負えなくなっていったから、
悩むと言う時間の使い方をする様になった。
これは、少女漫画で、その当時の一種のトレンドだったから、
受け入れる事を誰も悪いと言わないばかりか、それでようやく、周りと合わせやすくなった。
この時間の使い方で随分救われた。 良くないけど、まあ、いい経験です。

全部が本気なのだ。悩み苦しむことも、その向こう側にある青空を忘れて没頭して、
終いには、生きていても仕方がないとまで思うようになった。

悩み苦しむことに没頭し、そんな自分を演じている様な隙間を、絵にかく事で見つけていく。
何かで内面を表現していくことで、その表現を鏡として持つと言う事を、人は必要とするのだろう。
三種の神器の一つ、御神体の鏡が、ここで出てくる。


人間の体は、環境要因をそのまま身体にうつして育つ事で完成していく。
体の構造材の一部、臓器の器官と器官を繋ぐ回路に、幼児期の段階で、周りの大人達から吸収した、リズムの様な思い方のパターンがそのまま組み込まれるのだろう。
フォーマットとして そのまま活用するように出来ているから外れないのだ。


そして、この、積み上げるという命の形も、とても大事な事を教えてくれる。
先の命、先の環境、先の経験の上に積み上がる。これは良し悪しではない。人が都合で分けたくなるだけで、過ぎた事が今を活かしているのだから、何を言おうと、先輩が生き、整えた土壌で、そこに自分の歩みを重ねていく。
全てが、有難いもの事として受け止められたら、ずっと生き易くなるだろう。


パターン。個々の内側から流れてくるリズム、波をひろい上げ、音楽として表現すると、
やはりこれも、鏡だろう。
ここから一つずつ、人は内側で構成要素になった自分の生まれてからの環境要因を
外側に映して行って、客観視しながら再体験し、自分を知っていくことで、自分から自由になっていく旅をして行くのかも知れない。


成育歴のフォーマットを外していく事が出来るのかどうかと言えば、一番手っ取り早いのが、
回路を使わない方法、直感直通で、今に居ると言う事だろう。

では、何のために使わない方が良いぐらいに言われてしまう回路があるのかといえば、それは文化の為なのだと、私は思う。

祖先がコツコツ洗練させてきたもの事の積み上げが、文化となって、
どんなに荒れた時代をも潜り抜け、型を通して子孫を守り、
自分が構築したもの事の、その先の続きに夢見たもの事を叶えていく事を、望めるのではないか。
何度も何度も波にのまれて更地になる度に、その先まで続く安心な命の形を構築したかったのだろうと思う。

本当のところは何か判らないけれども。

・・・


何かが引っ絡まっていて、解って居るようで、判ってないようなので、
自分の理解がどうなっているのか、確認です。
自分に聞けば返ってくる答え、自分の理解を、
自分が出来るかどうかは別としてね、見てみます。



感覚にポジティブもネガティブもない。
例えば痛みを痛みと意味着けする必要はない。
苦しんでいると思ったら、苦しみの外側で嫌がっているから苦しいのであって、苦しみの中に入って行けば、それは、ただの感覚であり、
その時には、もう、苦しみじゃない。

偽ることで良くなって行くことがあるかどうかといえば?
思うことを修正するときに、作用反作用で、シーソーになるのを、気が付いたら、気を下げて、
感じて体験する。
それは、素直な感じ方を偽りポジティブにするのではなく、
そもそも、思う習慣を、癖でする事は やめるのだ。

野生動物は、思わない。
感じて体験し、直感で動く。その連続。

何があっても、体験に徹する。
感覚に意識を使い、物事を思わず、
ジャジ癖を外していく。

思いとは何か、

意志の理屈、意志に与える重さ、とくれば、

意志とは、骨、

意識とは骨を動かす力となる。
意志の重さを匙加減するもので、感情をコントロールするもので、
何かを留めて、他の要因から切り離して構築する為に、
意識の軽さを一旦重くして、そこに留める役目として使ったものではないか。

用途以外の使い方では、特に、現実逃避に使われたり、現実をとても散らかしてしまう使い方が一般的になっているので、

つまり、思いで一瞬にして空気が変わり、現実に引き寄せるものが変わる。

自分が気を散らした様な思いの使い方をしていたら、現実が散らかる。目の前に現れてくる自分の状況に、余計なものが沢山入ってきて、時間がかかる。
思いの力がおかしな使われ方になっていった背景を、見てみる。

何か、あまりにも耐えがたい忍耐を必要とする場面があった時に、気を散らす事を覚えたのだろう。
戦争だろうか。

今、「思う」事が何をしたか、少し気が付いた。

判らない事を思案してみる。何か気になる事を解消する?つまり、気を散らしたのだ。
直観で判る事は判る事。

そこに居ないで気が付かない時に、つまり解らない状況になった時に、
思って迷い、時間を使って散らす。

何で?

習慣なんだけれども、一つ、何か気になった感覚。今に居なかった時間に対する無意識の不安感、あったかどうか。
何かをごまかした様な感覚。

 
思わない居方、ただ観る意識の使い方が出来たらと思う。


意志とは、石
重いものではなく、思いものとして扱う意識の使い方をしているから重いのだろう。
それを重くしないで、気と合わせてそこに居れば、自由に動けるはず。

この世のすべては意識で全部動くから。岩も飛んだ時代があったらしい。

感覚的に判ること、意識を合わせて全部解って連動して動く感覚。

例えば教え方が本当に上手な先生は、頭ではなく感覚で相手と理解を合わせて誘導出来る。

意識で飛ぶと言う事。UFOも、操縦の仕方は、意識を綺麗に合わせ続けて飛ぶらしい。意識が抜けたら墜落するって聞いた。

外側の現実が、鏡として映り、それを内側と照らし合わせながら、次に繰り出すの命の力をどこに置くか、分かる。
その時、
見えている現実を陰陽の陽と見た時に、陽を見る事で、反対側の姿、見えない向こう側を見てとる事が出来る。
これが、バランス感覚で、
いわゆる芸術教育と言われる分野で養われると言われているものだ。
沢山五感を使い遊んで、感覚を育てていく、自分と外界とのバランス感覚が、直感的に見せてくれるものに手を添えてくれる。

これをすべて、頭でやる人がいる。
でも、直観で動く人とは全く早さが違う。
人生は、頭では決して対応しきれるものではなかった。
必ず想定外を見せてくれる。その様に出来ているのだなと、実感してきた。

だから、瞑想が勧められるのだ。
考えずに、感じる時間を取り、頭ではなく体手動にしていく事、座禅等。


人は生きていくという事は結局は、感覚が全てで、どうしたってそうなんだけれども、
簡単に忘れて、いつの間にか 頭が信じている「やらされているこの世界」パターン に陥るんですけど!

 

体をもって生まれてきたら、体の感覚を使って生きていく。


そして、切り開いていく事、
神話で言う剣、
これをもっと解りたい。
生きていれば、必ずその後の存在に対して先の作用をする。
必ず何かが切り捨てられ、道が開く。

切り分ける事で名前を付けて、分類し世界を理解してきた様だけれども、
今であれば、何ゆえそんな事が必要なのか解らないくらいに、
世界を細切れにした弊害の方を見てしまう。
私の帰りたい病のせいだ。

必要ないだろうと言えば、生まれて生きる事も、必要ないとなっていくから、
いや~
これは私は重症だ。

私はもう、三種の神器は要らない。
鏡も、勾玉も、剣も、そういう法則性の元に遊ぶ神話は終わっていいよね。自分が自分の住む世界を選ぶんだから。

 

次は?

と来たところで忘れる。何か今はっきりとしていた事を忘れ、頭で読んだら、
又別の法則性が現れる様な事になったらうんざりと思った。

もういい。私はお片付けをする。
と言ったら、すかさず環境中から「つまんない」と声が聞こえて来た。

貴方がつまらないかどうか知らないけれども、私はつまらない気持ちになっているね。


今、新しい扉の前に居る。
楽しみに開こうとしている自分と、
その為にどれだけの事をしなければならないかと思って、
メゲた自分がいる様だ。

意識がズレる。

走っている道のラインを見たらどうしてもズレる。

書いている時に追っている話の筋。

これが思いの使い方だろうな。

新しい扉の向こうで使う意識の使い方は違う。
これまでの使い方で行ったら、とても大変だと言う事を、当たり前に言ってしまう自分と、

あれ?

ズレた。が何度も交差する。

 

凄い粗い意識度合いですね~消えては掴み、掴んでるようで何だかすり替わっているかどうか、自信なくなる様な・・・

 

それでも、私は充分! 特に困っていないです!

出来る出来ないと言って 自分に負荷かけないでね。

次を一応知っておこうとして、書いておく。
やるやらないじゃないよ。勝手に動いていく方向性を見てるの。


頭で理解して鏡だ勾玉の向こう側を見るだの意識してそこ探らないでも、
頭の情報全部捨てても大丈夫になる。

 

瞬間に解る様になるだね。


終わり終わり!!!

 

こんなに頭使って話の筋追っていったら

何が大事か間違えるかどうかかなり怪しいところまで行くじゃないか!!

 

話がではなく、

話の筋を追っていく事が大事じゃないって事を忘れるから、

つまり話の筋を追って完結させる事が優先になっていくから、何やってんだ?って、

「思い」というものを取り上げて、

よくよく何が起こっているのか判りたかったの。

 

 

あ~わかったわかった!!

こんだけやったから、見えて良かったよ~

 

お  わ  り

 


   お母ちゃん片付けたよ~!エライでしょう!!見晴らしいいところに来たよ~!次世代あんたのお陰さんで!!