東日本大震災 津波が奪った母の夢 息子「医者になる」
毎日新聞 3月31日(木)12時15分配信

 母は苦手な分数の計算に手を焼くと、よく助けを求めてきた。「にいちゃん、算数、教えてよ」。宮城県石巻市の藤田利彦さん(48)は、そんな少女のようなひたむきな顔を思い出す。家計が苦しく中学までしか行けなかった母蓉子(ようこ)さん(72)は「高校で学びたい」と言い出し、医師を目指す藤田さんと一緒に机に向かった。母の夢。そして命。津波はすべてを流し去った。【水戸健一】

 藤田さんは高校時代に父親を亡くし、卒業後は地元の水産工場で働いた。20歳の冬、蓉子さんに「勉強したいのなら大学に行っていいよ」と言われ、まだ願書が間に合い学費も安かった東京の私立大経済学部に入学した。その後は仙台市の予備校などに勤務したが、本当は「医者になりたい」とずっと思っていた。

 蓉子さんが高校受験を目指すようになったのは古希を迎えてからだ。藤田さんはそのころ、予備校の講師を辞めて石巻の実家に帰っていた。医師への希望をどうしても捨てきれず、医学部に入り直す勉強をするためだった。そんな息子を見て「母も触発されたのかもしれない」と藤田さんは言う。

 母と二人。夢を語り合いながら机に向かった。庭の桜の木を眺めながら「どちらが先に花を咲かせられるかな」と笑いながら話したのが、今は遠い昔のようだ。

 あの地震の直後、藤田さんと蓉子さんは一度は自宅の2階に避難した。しかし津波が迫った時、様子を見に来ていたおばの阿部拓子(ひろこ)さん(67)が逃げ遅れた。妹を救おうと階段を駆け下りる蓉子さんの背中に藤田さんは叫んだ。「無理だ、やめろ!」。しかし蓉子さんは聞かず、拓子さんとともに濁流の中に消えてしまった。日没までの数時間。藤田さんは泥水に潜って捜したが、見つけられなかった。数日後、2人は遺体となって収容された。あの庭の桜の木も流された。

 太平洋戦争中、朝鮮半島で暮らした蓉子さんは、日本の敗戦の色が濃くなると小さな船で日本海を渡り、命からがら帰国した。蓉子さんは藤田さんに「水が怖い。暗い色の海は二度とごめんだ」とよく話していた。母親が迫り来る津波を前に、どんな思いで階下に足を踏み下ろしたのか。それを想像すると胸が痛む。

 2階だけが残った自宅を片付けていると、勉強道具が次々と出てきた。水をかぶって壊れてしまったが、電卓もその一つだ。藤田さんが計算の苦手だった母親のために買った。「教えてよ」。問題が解けなくても楽しそうだった母。あの声は二度と聞けない。

 藤田さんは今、市内の親戚の家に身を寄せている。自宅で参考書を見つけると持って帰るが、泥水で汚れていてほとんど使い物にならない。市内の書店はまだ閉まっていて、新品を買うこともできない。しかし、何としても受験勉強を続ける覚悟だ。「生き残った自分まで津波に負けたら、母に申し訳ない」。いつか合格の桜を母に手向けたい。









とってもつらい過去があって水が怖いのに・・・妹を助けるために水に・・・絶対に、そのお母さんのためにも、自分の夢を叶えて欲しい・・・応援します・・・