ところてんの 謎解を解く (2)
前回の続きです。
まずは、前回のこの ↓ ヒントから。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典、 『守貞謾稿』(もりさだまんこう)の挿絵である。
本文は、こう書かれている。
「心太と書いてところてんと読む。京・江戸・大坂とも、夏にこれを売る。京・大坂では、心太をさらしたものを水飩(すいとん)と称している。心太は一箇が一文、水飩は二文。買った後に砂糖をかけ、あるいは醤油をかけてこれを食す。京・大坂では醤油は使わない」
※当時 「大阪」 は、「大坂」 と書いた
原文はこうだ。
「心太、ところてんと訓ず。三都とも、夏月之を売る。蓋し、京坂、心太を晒したるを水飩と号く。心太一箇一文、水飩二文、買うて後に砂糟をかけ、或は醤油をかけ之を食す。京坂は醤油を用ひず」
まず、この部分。
「買った後に砂糖をかけ、あるいは醤油をかけてこれを食す」
「京・大坂では醤油は使わない」
今日のような、酢醤油や黒蜜ではない。
江戸では醤油や砂糖をかけて食べる。京・大坂では砂糖をかけて食べるが、醤油をかけて食べることはない。
『皇都午睡』(みやこのひるね) には、こうある。
「心太は、今は上製のものをスイトンという。下品なものはトコロテンという。トコロテンは心太(こころぶと)からの称で、心太と書く。水太(すいとん)は同じ心太の特別なもの」
原文は、
「心太は、今上製の物をスイトンと云ふ。下品なるをトコロテンと云ふ。是、心太こころぶとにて、心太なり。水太すいとんもおなじ心な特べし」
『守貞謾稿』の起稿は天保八年(1837)、約30年間で全三十五巻を書き上げた。
『皇都午睡』の成立は、嘉永三年(1850)。
両者とも、江戸時代の終わりのほう、明治に近いころのことを書いたものである。
『絵本江戸爵』挿絵(喜多川歌麿 画)天保六年(1835)
江戸・両国橋のたもとで商うところてん売りと客。
ところてんを食べるときの器や醤油徳利のようなものが
描かれている。
『守貞謾稿』 や 『皇都午睡』 と同じ時代のもの。
![百楽天の百花繚乱書院](https://stat.ameba.jp/user_images/20090815/21/h100raku-ten/eb/60/j/t02200286_0315040910233702839.jpg?caw=800)
『守貞謾稿』の著者は、喜田川庄兵衛。通称、守貞(もりさだ)。文化七年(1810)に浪華(なにわ/大坂のこと)に生まれ、二十八歳で江戸・深川に下り、その後もしばしば江戸・大坂間を往還したらしい。
『皇都午睡』の著者、西沢一鳳(にしざわ・いっぽう)は大坂に生まれ、大坂劇壇での活動の後に江戸に移って執筆活動を行った人である。
『守貞謾稿』に書かれた水飩は、『皇都午睡』の「水太」と同じとみてよいだろう。
訳文は、ボクが書いたものだが、これだけの短文でも簡単ではない。
「心太を晒したるを水飩と号く」
「水飩」 の 「飩」 は、「饂飩」(うどん)の 「飩」 と同じ。本来は 「粉を練った食物」 のことである。
また、「晒す」は、「水にさらす」 ということなのか?
ちなみに、かんてん(寒天)は、ところてんを寒中空気にさらして作るので、このあたりも確認する必要がある。
『守貞謾稿』に書かれた 「心太は一箇が一文、水飩は二文」。 ここが重要なところである。
また、この価格には砂糟(砂糖)や醤油は含まれない。買った後で、砂糖や醤油をかけて食べる。
『絵本江戸爵』挿絵には器や醤油の徳利のようなものが描かれていて、客はその場で食べていることから、醤油は別料金のオプションだったのかも知れない(このへんの確認も必要だ)。
江戸時代後期には醤油や砂糖でところてんを食べた。今は、酢醤油、黒蜜、三杯酢など・・・。
さあ、おもしろくなってきたぞ。
つづく