李麟佐の乱(戊申の乱)のこと:『テバク』予習その4 | ゆかりんsoku☆チャン・グンソク

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韓国人俳優チャン・グンソク君のファンのブログ。
現在、記事の更新は不定期です。

今回の『テバク』予習は
前記事の補足も兼ねて、

チョン・グァンリョル大明神様が扮する
李麟佐(イ・インジャ)にまつわる史実を
ざっと記してみたいと思います。( ̄∇ ̄*)ゞ


   李麟佐のことを書く機会は記事に乗じての今しかないわっ。下書きそのままで一発勝負よ! w( ̄▽ ̄;)w
 

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1720年に第19代王・粛宗(スクチョン)が亡くなると、
朝廷では
第20代王・景宗(キョンジョン/禧嬪・張氏[ヒビン・チャンシ])の息子)を
支持する少論派(ソロンパ)と、
延礽君(ヨニングン/淑嬪・崔氏[スクピン・チェシ]の息子で景宗の異母弟、後の英祖)を
支持する老論派(ノロンパ)の党争が一段と激しくなります。

このあたりの関係を図にするとこんな感じかな。
一部架空の人物が混ざってますが。( ̄∇ ̄;)
 

【王と支持政党の関係図】

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1721年に延礽君が世弟(セジェ/世継ぎの王の弟)に冊立されると、
これに反発した少論派が老論派を大量に粛清します(辛壬士禍:シニムサファ)。

一時は身に危険が迫りながらも
なんとか生き延びた延礽君は、
1724年に景宗の急死を受けて
第21代王・英祖(ヨンジョ)として即位します。
英祖は31歳になっていました。

  

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しかし、英祖が即位してから
5年目の1728年3月、


朴弼顕・李麟佐・鄭希亮を中心に
少論派の急進派と南人派勢力が結託して、
 

「英祖は粛宗の子ではなく、
景宗を毒殺した王位簒奪者だ」と主張し、

昭顕世子(ソヒョンセジャ/第16代王・仁祖の長男)の曾孫・
密豊君(ミルプングン)を担ぎ出して謀反を起こします。

                      い、1枚くらいはグァンリョル様のお写真を…。( ̄∇ ̄|||)

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1728年3月15日、李麟佐が自ら率先して
清州(チョンジュ)城を占領し、
反乱の火蓋を切ります。
これに呼応して全羅道(チョルラド)、
慶尚道(キョンサンド)でも反乱が起こります。

英祖はただちに討伐軍の編成に取りかかり、
反乱軍と同じ少論派でありながら
自ら志願した呉命恒(オ・ミョンハン)を、
討伐軍の総司令官として派遣します。

呉命恒は反乱軍にスパイを送り込み、
彼らの動きを事前に察知して
したたかに攻めこみます。

 

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結局、反乱軍は討伐軍に包囲されて壊滅し、
李麟佐ら首謀者は首都・漢陽に移送された後、
処刑されました。

わずか1ヶ月で幕を閉じたこの反乱は
「李麟佐の乱」(または「戊申(ムシン)の乱」)と呼ばれています。
この反乱により、少論派と南人派は大打撃を受けました。

 

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その後、英祖は
反乱鎮圧で戦功を立てた少論派の呉命恒を
右議政(ウイジョン/国政第3位の高官)にし、
老論派の洪致中(ホン・テジュン)を
左議政(チャイジョン/国政第2位の高官)に任命します。

こうして、英祖は「李麟佐の乱」をきっかけに、
少論派と老論派を公平に登用することで
王権を強化する「蕩平(タンビョン)策」という政策を推進し、
以後しばらくの間は、朝廷は安定した状態が続くことになります。

 

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前記事に載せた
韓国ネット記事によると、

どうやらドラマ『テバク』では
陽のキャラクター・テギルに対して
李麟佐を腹黒い悪役として
分かりやすく描くようですが、

チョン・グァンリョル大明神様なら、
きっと普通の悪役では終わりません!( ̄∀ ̄)"b"


いぶし銀の輝きを放ちつつ
テギルと対峙する李麟佐を力強く
演じてくださることと期待しております。


視聴率を持つグァンリョル大明神様、
なにとぞ『テバク』が大ヒットするよう、
グンちゃんとウナギたちの夢をかなえてくださいましっ!


 

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 ホンマに頼みますっ!!(。-人-。)



※画像はインスタグラムなどよりお借りしました。
※参考文献は後日まとめて記します。