友よ 私が死んで土に還ったら その土で器を造ってくれ。 その器でお茶を飲む時 私の事を想い出してくれ。       

友よ 私が死んで土に還ったら その土で器を造ってくれ。 その器でお茶を飲む時 私の事を想い出してくれ。       

I'm just stuck with something beyond my control. Do I deserve it, called HIV?
Don't waste your time, even if the world is unfair. We were born in defferent shapes, places and times, but we were born equally. That's how we are.

いらっしゃいましぃ。 



今一度、ご確認下さーい。 HIV及び♂♂ネタ満載ですのよ。 



ちょろい肺炎にかかって、入院したら、うっかりHIVに感染してたって、よくある話よネ。 

HIV+肺炎の合わせ技で、いきなり発症、悲しいかな、流行にのってるワ。 



酸素吸入、救急車、ステロイド、アレルギー、障害認定・・・スリル満点、めくるめく禁断の日々。  

恐いもの見たさで、ちょっと覗いていって。 笑えるネタは少ないけど。 



これまでの人生があって、ここまで来たから、敢えて、後悔とか言わない。 これから先が長いのだ。 

HIVになって、ふたつ目の命が始まったのだ。 



HIVだからって、他の病気より、特別だとは思わないけど、今はこれに掛かりっきりだから。 



そんな中年オトコのぐだぐだな日常の記録。 





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先週は、再び@実家。  無人の実家。

故人が何処かに居るような気がするなんて、そんな筈は無い。  永遠に行ってしまって、何処にも居ないのだ。

 

無人の実家の維持費軽減の為に継続しているのは電気と水道だけ。  格安SIMのインターネットも非力だ。  不便この上ないのだが、それでもこの寒い主の居ない家に帰って来た。

 

今更何度家に帰っても、これから何年経とうと、自分を許せないことに変わりはない。

 

自分で悔いているだけならまだ良いが、兄のところには、「なぜ引き取らなかったか、独りで死なせたか」、と外野の騒音が聞こえているらしい。

そんな事言われなくても、一人暮らしの父の事は考えてたさ。

 

切羽詰まらないと事を起こせない性分の駄々っ子も、さすがに今後の身の振り先を考える。  上の世代がみんな逝ってしまったからね。  後は僕ら兄弟だけになった。

 

先の記事で仕事を卒業する事を書いたが、色々と数字を弾いて、次の夏で辞めることにした。  失業給付金の出る期間や引っ越しのことを鑑みて、夏以降もちょぼっとバイトはするけれど。  辞めると決めてさっぱりした。  仕事は生き甲斐じゃなかったね。

 

誰が、何時、いってしまうか分からない年に成ったから、仕事には拘束されない選択をしようと思う。

 

更に繰り上げて引退する事を兄に告げたところ、「いつでも好きなところで辞めたら良い」。

そう言うと思っていた。  本当にうちの人達は、何かをするなとか、こうでなきゃいけないとか言わない。  おかげでのらりくらりと生きて来た。

 

「お金が足らなきゃ、お父ちゃんの遺産で食っていけば良い」。  他所の兄ちゃんはそんな風には言わないのかも知れないが。  「もっと働け」って。

 

辞めて何をするって計画はないのだが。

 

 

実家に帰るとすぐにお隣の畑に食料調達に行くのだが。  白菜と葱と水菜と春菊は鍋に。  大根は柚子と漬物に。  キャベツはお好み焼きやラーメンに。

 

そしてこんなものも。

 

 

左から、大根葉をさっと茹でて、塩をしたもの、菜っ葉ご飯の素。  下のがパクチーの塩オイル漬け。  右上のは葱の青いところの塩オイル漬け。  奴に載せたり、焼き飯に入れたり、鍋の薬味に。  やっぱり、ローテクな手作業が性に合っていると思う。

 

野菜だって命を頂くのだから、皮や根や葉っぱも無駄にするものでない。  パクチーの根やパパイヤの種とか、捨ててしまうのがあほらしいものがいっぱいある。  捨てる為にはお金も資源も労力も要るからね。

 

 

実はね、写真の市松のこたつ掛けはおっさんのお手製である。  ペーペーの駆け出しキルターだった30年以上前のもので、安直な市松模様だけど、ちゃんとステッチをかけてあるし、今でも使える。  行楽の敷物にも重宝した。

 

父の衣類は大方処分したのだが、シャツは残しておいた。 自分のアパレル時代のシャツも山のように眠っているのと合わせて、白っぽいキルトを作ろうと思う。

 

緩~い、スローな断捨離をしながら、やりたいことが出来たらすればいい、くらいの隠居を始めよう。  もちろん海外にも行くよ。  体力のあるうちにね。

 

兄が泊まりで帰ってきた。  退職する事と、実家を建て替える事は決めたら、取り立てて議論することもない。  遺産の話もついている。  揉める話はないのだから、飯を食って、酒を飲んで、だらだらするだけだ。

 

でも、人がそこに居るってことは、物理的にも温かいのだが、気持ちも温まる。

父が死ぬまで、なんで色んな事をすっ飛ばして生きてきたのか。  それを思うと、生活に困らないなら、仕事はもういいや、そう思う。

 

普段は何とかちゃんとやっているつもりだが、兄がお泊まりの後自宅に帰り、また暫く無人になる実家を片付けて、鍵を掛けて出ていく時は、全然大丈夫じゃないのだ。  もう戻って来ないものが多すぎて苦しくなる。

 

だから、兄の帰り際にお願いをした。  「ハグしてしれない?」。

面食らった様子だったが。

 

幾つになっても手の掛かるちびちゃんの気持ちを分かってくれる兄で良かった。

実家に帰っても、父が作った農作物は既に無く、最後まで軒に吊るしてあった玉葱は茶色に炒めて冷凍庫にストックされて、「生鮮」なものは無い。

何十年と住んだ家だが、食料を調達して、家を出る時には、また空にして出て行く。  旅行でコンドに泊まるのと同じである。

 

物心つく前から、近所中に愛想を振りまいてきたおチビちゃんだもの。  ちゃっかりおねだりする術が、兄とは、役回りが違うのだ。

 

帰省する時には何かしら手土産を持って、一番にお隣に顔を出すと、食べきれない程の野菜を持たせてくれる。  コンド生活中に、野菜が足らなくなっても、勝手に畑から持っていけば良い。

 

隣のおばちゃんは亡くなった父と同い年だけど、僕と隣のお兄ちゃんとは15才も年が違うので、いくつになってもおチビちゃんなのだ。  いつまでも世話になるのだろう。

 

ブログで逐一報告してはいなかったのだが、平坦なおっさんの暮らしにも変化が起きている。  あれから幾つかの決断をした。

 

後2年働いたら、目出度く卒業する事にした。  兄が定年になる1週間前に。  お上が65まで働けと言うご時世に。  兄も再就職はしないようだ。  生産性の低い兄弟である。

 

そしてここの暮らしは引き払って実家に帰る。  未練があるのは、散歩の我が君とケーキ屋のおじさんと離れる事くらいだ。

 

実家の家屋は一度なぎ倒さないと、建築許可が下りないようなので、完成には時間が掛かるが、新居で、老後というには早い隠居。  また何かすればいい。

 

それまでは何度も帰省して、少しでも兄と過ごすつもりだ。  兄が時間を作って帰って来てくれるので、何をするでもないけれど、何十年分の欠けた時間のピースを掻き集める。

 

実家を倒す事にしてしまうと、最低限のメンテで足りる。  片付けや遺品整理は遅々として進まないが、支障もない。


兄が居る日には、飯を作って、明るいうちから酒でも呑んで、風呂に入って、また呑んで、寝てしまう。  そんなことは僕らになかったので、今更だけど、そういう時間を大切にしたい。  この先どんなにしても一緒に過ごす時間は、実際には本当に短いのだから。

 

 

コンド暮らしでは凝った料理は出来ないが、この日の夕食は、お隣の頂き物の野菜も活躍して、「ちらし寿司、生春巻き、豚汁、お豆さんと色々トマトのサラダ、野菜の天ぷら」。  (兄は肉々な人なので、菜食を強要はしない)。

 

母のちらし寿司には高野豆腐の炊いたんが入っていたなぁとか、おじやに餅が入っていたとか、他所の人には分からない想い出や、これからの僕たちの事、お金の事、家の建て替えの事、下半身の事までも、だらだらと話をして夜が更けていく。

 

画像の左に写っているのが兄だ。  酔って寝転がっているうちに、腹を出して鼾をかいて寝てしまう。  僕の記憶の中の兄は、そんなオッサンではなかったが、この腹を出して寝ている人を愛おしく有り難く思うのだ。

2週間弱の入院だった。  大っぴらに仕事を休めるのでお気楽なもんさ。  

入院中に実況中継をしなかったのは、今回の入院、自分にとって興味の薄い話だっただけ。  なんて言うとB型丸出しといわれそう、その通りだけど。

 

副鼻腔炎についてブログで書いてきたのでザックリと簡単に。

 

事の始まりは3月にグズグズの風邪を引いたついでに、臭いがおかしくなって副鼻腔の感染が発覚。  抗生剤を飲み続けるも完治には至らず、夏に、副鼻腔炎の原因がウィルス・細菌に因る感染か、カビ由来かを調べる為にMRIで検査。  結果はカビではなかったので処置がし易いらしい。

 

服薬が長くなったのに改善しないので、抗生剤を強いものに替えて、一気にやっつける作戦も失敗。  抗生剤が効いているのか怪しいから、一旦薬を止めてみましょうと言われたが、数日で臭いが復活して、抗生剤を再開。  完治しないけれど、それなりに効いている事を確認。

 

ただ、正直なところ、抗生剤さえ飲んでいれば、異臭がすることもなく、頭痛がするわけでもなく、あまり不都合を感じてはいなかった。  不味いカスタードクリームが喉にちょろちょろ流れてくるくらいやり過ごせることだ。

 

しかし永遠に抗生剤を飲む訳にはいかないのか、秋には、手術をしましょうってことに。  HIVの患者ならエンドレスの服薬は調教されているから、どっちでも良かったんだけど。  あぁやる気のない患者だこと。

 

10月に旅行の予定があったので、それの後で手術できるのが12月だった。   足掛け9ヶ月、副鼻腔炎としてもちょっと長い、飲んだ薬は2000錠。  「私の身体は抗生剤で出来ている」、HIVと判ってから本当にそう思う。  この7年で何万錠の薬を飲んだだろう。

 

手術と聞いて、「最近の技術なら日帰り入院か」、と思っていたのが外れて、全身麻酔で4時間くらいだそうで。  おいおい、それじゃぁ、「手術中おしっこはチューブですかぁ」って、興味の焦点が違うらしい。  だって不安とか言っても、やられちゃう訳でしょ。  麻酔中は意識もないんだし。

 

手術をしてくれる先生が穏やかに何でも聞いてくれるので、例のことを確かめる。  ピアスを全部外しちゃうと、後で入れ難い部位(内緒!)があるので何とかなりまへんかぁ。  珍しい客だと思っただろうが、手術室に確認してくれて、メタルのピアスは電気メスで火傷する可能性があるので不可、プラスチックならボディピアスは可となった。

 

手術が決まってからは、入院支援センター的な所で手続きやオリエンテーションが何度かあったが、そこの対応で揉めた話が長くなるので、次回にしよう。

♫ こ~なこ~とは い~ままでぇ な~かぁったぁ ♫

 

昨年バンコクで亡くなった友に出逢った時、彼のように真のコスモポリタンに成りたいと願ったのに。  国籍も人種も文化も飛び越えて、何処ででも生きていけると思っていたのに。
 
父が死んで10日の間に、思いもしなかった方向に急展開。
兄のことは、水より薄い限りなく他人に近い人だったのに。  13才の時に兄が家を出て以来、大人になってから初めて兄とまともに話をした。  何もなかったかのように兄と弟に戻った気がした。  器が違うのだ。  上の子に生まれるというのはこれ程人を育てるのか。  それに引き替え私は・・・。
  
「家と田畑はどうする?」って聞かれて直感で答えた。
「田んぼは誰かやってくれる人が居ればお願いして、売れるものなら売っても良い。  でも家はまだ失くしたくない」。  今の暮らしに何かが起きても、あそこに家があると思えば、雨に濡れないで済む。  勿論想い出だってある。
「ええよ」。  それで相続の話は決まり。
 
相続で揉めて兄弟の縁を切った人を何人も見てきたので、あまりにあっけない決着に呆れる程だったが。  それは兄がそういう人だからだ。

後に聞いたところでは、私が家は要らないと言えば、更地にするのも仕方ないと思っていたそうだ。
「じゃぁ、僕が、家を残して欲しいと言うからそれで良いの」?
「うん」。  やっぱり敵わない。  てんで敵わない。  私が遠くに居れば、実家の世話をするのは兄なのに。
 
自宅に帰る日、駅まで送ってもらう車の中で、兄に伝えた。
「これからは時々帰ってくるから」。
この20年で帰省したのはおじいちゃんが死んだ時だけだったのに。  今更遅いかも知れない、もうみんないなくなってから。
 
自宅に帰ってから、兄からのメール。
「家に居て足が無いと不便だろうから、自転車を買って家に置いてあります」。
家の事は兄に任せて不義理の限りを尽くしてきた弟に、どうしてそこまでしてくれる?  それは、そういう人だから。
 
「家に帰ろう」。

父が死んで2週間した頃には、決断をしていた。  大好きなニュー・ジーランドでもバンコクでもない。  何にもない田舎の実家に。
 
不思議な共同生活もいつか終わるだろうし、今の土地に思い入れがあるかと言えば、さしてない。  それよりも最後の肉親となった兄とやり直す機会はもうないだろう。  直感でしか生きられない私の今の勘を信じよう。
 
「60より前にリタイアして家に帰ってもいい」?
お上が65まで働けと言う時代に贅沢なことだ。
兄の方が5才早く年寄りになることを思えば、少しでも長く兄弟で居ようと思う。
 
それからの話は早く、遺産の半分を使って実家の改築とメンテをする事に。
もう一度聞いてみた。
「家にこんだけ使ったら、現金の取り分が減るのに良いの」?
答えは分かっている。  
「自分が住み良いように改築したら良い」。  そんな人だ。
勝手に出て行って、また勝手に舞い戻ってくる弟、先回りして自転車を用意してくれる兄。  これでいいじゃないか。  変えようがないもの。
 
今年の秋は休む間もなく心が震えて、いっぱい泣いた。  エイズになったのに冷めていた7年前とは違う。  良かった、まだ生きてるぞ。
 
兄は毎週のように実家に帰って、落ち葉をかいたり、畑の世話をしている。
そして私は、実は入院中で、暇つぶしに編み物でもするところを、実家の改築の下描きにと方眼紙を持ってきた。
 
無事に手術を終えて退院して、春が来る頃、再び家に帰ろう。  改築の計画などを話しながら、 何をする訳でもない時間を過ごそう。  それがいい。

面と向かって言ったことがない事、入院中の事、兄への感謝、洗いざらい吐き出して、大泣きして、幾らか気持ちの整理か付いたと思ったのに。  自宅に帰る間際にまた内臓がひっくり返る出来事が。

 

実家に居ても、これと言ってする事がない。  父と母の衣類と食器が沢山残ったが、これも腐るもんじゃ無し。  兄が自宅に帰った夜、なんとなく宝探しを続けた。

 

母の呉服箪笥は捜索していなかった、小物入れの引き戸を開けてみると、母の宝飾品と共に、沢山のアルバムと写真が出てきた。  見たことのない写真ばかりだった。

 

眩い娘時代の母、20代の男盛りの父、二人の婚礼写真も。  私たち兄弟は父母が晩婚だと想像したのが間違いだと判る。  兄弟にとって、父と母は親であって、一人の男、一人の女としての父母を知らない。  母はびっくりする程愛らしく、父は男前だ。

 

そして私たちが産まれて幸せだった子供時代。  家を改築する前の、木製の雨戸のある縁側で遊ぶ兄と私。  辺りの景色も実に田舎らしい。

 

やがて兄が結婚して、子供が産まれて、嬉しそうな母や祖父。

 

20代で父となった兄の顔は、まだまだ青いけれど責任感のある良い顔をしている。

一方、鉄砲玉の私は二十歳前から一切家族写真から消えた。  これはこたえた。

 

母が死んだところで、家族写真は途絶える。

もっともっと写真があったが、苦しくて、見られない。

 

もっと家族と過ごすべきだった。  兄の子供たちが成長するのを近くで見ていたかった。

今更何を言ってもやり直せないのに。

 

もう二度と手に入らないものが眩しすぎて、涙が止まらない。

ドキドキして内臓が口から溢れそうだ。  言いようのない感情に潰される。

 

非常識だと分かっていたが、兄に連絡したのは夜中の1時過ぎ。

「無理だと分かっているけれど、今すぐハグしに来て」。

いい年したおっさんのSOS。

 

兄もそんな写真を見たことがないそうで、テーブルにわかるところに置いて帰ってくれって。

実家を出る時に、アルバムのページを開いて帰った。  二人が縁側で遊んでいる写真。  もうあの頃に戻れないなんて。

 

兄は時折休日に、実家の片付けをしているので、写真をもう見ただろう。  私が開いておいた写真も。  私がどんなにヘタレでも泣き虫でも分かってくれる人は兄だけだ。  何故こんなにも離れていたのか。

 

単に父を亡くしたという事でなく、自分の不甲斐なさや後悔、兄の存在の大きさに気付いて、打ちのめされた2ヶ月。  今でも不安定な状態だけど。  おかげで大きな決断をした。  次回その事を書こう。