こんばんは^^

今日は祖父母の事を覚えている範囲だけど書いてみようと思う。

今までの「仮面の下・・・」では、とても怖い祖母と妹の肩を持つ祖父。




祖父母は富山の出身で、網元の家の祖父は11人兄弟の7番目(うち5人は戦死)。

貧しい家の祖母は兄(生存不明)と二人兄妹、曾祖母が行商をしながら育ったそうだ。


祖父は跡継ぎではなかったので家を出て妻子を養わなければいけなかった。

17の祖母と25の祖父が結婚し、翌年母が生まれた。



大阪に出て祖父はタクシーの運転手をし、祖母は母をおぶって屋台でお好み焼きなどを売る仕事をしていたそうだ。

その後祖母は妊娠したが、子宮外妊娠で子宮も卵管もとった。女じゃ無くなったとよく嘆いていた。

母はとても病弱、小学校時代結核を患っていたこともあり療養所生活で富山の曾祖母の近くに。

母が療養所を出てすぐ祖父も大病をした。

腸ねん転で、大きな傷がおなかにあった。以後タクシーを降りて工務店経理で勤めていた。



祖母は一人で昼間は屋台を引き、夜は反物を縫うお針子をして何とかしのいだそうだ。

考えてみれば祖母も苦労人。

知らない土地で、療養所の娘と旦那のため一人頑張ってたんだよね。



母が言うには
「祖母がいなかったら私は生きてなかった。助けてもらった恩がある。
妹がおなかにいる時も父の暴力で出血早産、泣きながら面倒見てくれた。
離婚の時は頑として認めなかったけど、祖父が連れて帰る!の一言で祖母は折れてくれた」と。


祖父は妹を「目に入れても痛くない」猫かわいがりしてた。
祖母は、ああみえて私を気にかけてたようだ。



私と妹がつまらない口喧嘩をすると、祖父が「姉ちゃんのくせに!」と妹の肩を持つ。
それを見て妹ばっかり可愛がってと祖母が言う。
姉妹の喧嘩が、いつのまにか夫婦喧嘩になる事もよくあったんだ。



ただ、物心ついた私としては喧嘩の後、祖父母に「私が悪かった」と言って仲直りさせるのが面倒だった。
だって、ちょっかい出すのはいつも妹、本当に悪いと思ってないから・・・余計に面倒なんだ。



祖母はとても器用で料理上手だった。大阪で言う着道楽でもあった。
私がお年玉を子供貯金である程度まとまったら反物買って、着物を縫ってくれた。
高校から離れて暮らすことになったけど「料理のさしすせそ」を、教えてくれたのも祖母。
祖母の傍らで料理を見ながら習うのが好きだった。


祖父は網元の子だっただけに、お魚をさばくのが得意。大阪で言う食道楽でもあった。
大きな鰤とか、祖父の手にかかると、あっという間に切り身になり刺身ができる。
私、刺身は食べないけど、焼き魚や煮魚の骨はいつもとってもらってたな。
月に一度、レストランに連れて行ってくれて、グラタンも祖父が初めて食べさせてくれた。
フォーク・ナイフもこの祖父に教わったくらい。


母は、あまりいい笑顔の記憶がない。
運動会や授業参観、来たこともない。(床屋は月曜休みだから)
いつも義父がぶらぶらしていたせいもあってか、働く後姿と泣き顔ばかり思い出す。
仕事以外では至って不器用、ボタン付けがやっとな人。料理食べたこと片手ほど・・・。



私が生まれたとき、母21歳。
祖父47歳、祖母39歳。



今、自分がこの歳になって思うんだけど、
あの強行で頑固でヒステリーだった祖母は更年期だったのではないだろうか??
子宮も卵管もとった祖母。
祖父が外に女の人がいることも知ってた、私。(浮気ですね)
そう考えると、祖母の人生もちょっと女としてかわいそうに思えてくる。



プレ更年期って、いろいろ大変なのよ~~♪今こそ男の更年期も知られているけどさ・・・・

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面倒が嫌で、回避傾向な私が見えてきたよ~~


追記・・・曾祖母は今の実家で91歳、老衰で亡くなった。長生きしたね。