2009/08/27 | GReeeeN「HIDEの人生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」

GReeeeN「HIDEの人生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」

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どうも。


ご無沙汰しております。


友達に影響されて魚眼レンズを買ってみたのですが、


最大広角が110度と180度では全然ちがうのね、、、。(私が買ったのが110度、彼のが180度)


と、少し落ち込んでいる私です。


家族連絡、父さん、魚眼レンズ相当面白いですぞ!!!


さて、


みなさま大好き歴史の話第2弾!!!


ただ、みなさま裏歴史が好きなようで、私も大好きなのですが、


話がずれますゆえ、また今度。


と、言いたかったのですが、みなさまのコメントの中に


『日光東照宮にも桔梗の紋が!!!』といった内容がございました。


ふふふ、、。


そこきましたか。


燃えますな!!!


日光東照宮はもちろん徳川家康を御神体として、江戸の鬼門に建てられたわけです。


その当時の徳川家のブレーンをやっていたのが『天海和尚』なわけでありますが、


彼は突然歴史の表舞台にやってくる訳です。


諸説はございますが、彼の出生から表舞台に登場するまでの間の歴史は皆無に等しい訳です。


後にも書きますが、徳川家にとって最も居てほしくない存在が豊臣家。


豊臣秀吉に最も恨みを持っていたのが明智光秀。


あれ?利害関係が一致しますね。


突然歴史に現れた天海、明智の紋が桔梗、日光東照宮に桔梗の紋。


あとは、みなさまのご想像にお任せ致します。


なにせ、龍馬の話に行き着くのに300年ほど話を進めなくてはなりませんので!!


で、前回の続き、


豊臣秀吉は明智光秀を討った『天王山の合戦』以降より勢力を伸ばし。


遂には天下を統一しました。(秀吉が農家の出身で、信長の草履を暖めて気に入られたという話も怪しい気がしますが、、、、。)


がその僅か8年後。病気でこの世を去ります。


その際、秀吉は死の間際、伏見城に徳川家康、上杉景勝、毛利輝元などを呼び、


まだ幼かった息子『秀頼』の後見人としてよろしく頼むと、自分が死んでも豊臣家を中心にこれからもやって行く事を約束させた訳です。


が、しかーし!!!!


「未だおさない『秀頼』にはまだ任せれない!大きくなるまでワシが天下をおさめる!!!」


と、言い出したのが、あの、徳川家康!!!


それに対し、「約束が違う!!!豊臣家にはお世話になったんだから、約束は守れよ!!!」


と、正面切って徳川に喧嘩を売ったのが石田三成!!!


双方バッチバチ!!!でございます。


250万石の力を持っていた徳川家康に対し、19万石しかなった三成。


家康は力を武器に多くの武将を自分の味方に引き抜きます。


一方三成の方には力が無いため、総大将として毛利輝元が協力してくれる事になり、


豊臣家への義を旗印に武将が集まってきます。


関東に居た家康と、関西に居た三成はそれぞれ『東軍』、『西軍』となり、日本の武将がまっぷたつに分かれます!!!!


最後の天下分け目の大合戦!『関ヶ原の戦い』へと突入して行くわけでございます!!!


続く、、、。(なおこの文章には私個人の趣味が反映されております。)