柳原白蓮 ~異才列伝~(読売新聞より)
前記事の参考資料として
読売新聞H22・12・26 朝刊(日曜版)の
〝異才列伝〟のコーナーに掲載された記事を
全てそのまま載せてみます
柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)
~きっぱり駆け落ち 美貌の歌人~
大正三美人、筑紫の女王――。
柳原白蓮は、夫への絶縁状を新聞に発表し、
年下の恋人と駆け落ちした事件で知られる美貌の歌人だ。
大正天皇のいとことして生れた柳原燁子(あきこ)、
後の白蓮は、15歳での政略結婚を経て、
25歳で九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門(でんえもん)に嫁ぐ。
伝右衛門は豪邸を建て、白蓮を迎えたものの、
彼には何人もの愛人がいた。
2度にわたる自分の意に染まぬ結婚。
さらに、福岡は今よりずっと東京から遠かった。
「雅の世界に育った人にとって耐えられない寂しさだったと思う」
と思いやるのは、生前の白蓮に取材したこともある
豊島区図書館専門研究員で郷土史家の伊藤榮洪(えいこう)だ。
――寂しさの/ありのすさびに/唯(ただ)ひとり
狂乱を舞ふ/冷たき部屋に
白蓮は、創作に打ち込み、1915年、初の歌集「踏絵」を出版、
中央歌壇でも注目される存在となる。
そこに現れたのが、7歳年下の東京帝国大学の学生、宮崎竜介。
竜介は、孫文を支援して辛亥革命を支えた宮崎橙滔天(とうてん)の息子である。
2人は次第にひかれ合うようになる。
――南無帰依仏/マカセマツリシ/ヒトスジノ
ココロトシレバ/スクワセタマエ
電報で送られた白蓮の歌だ。
人妻との恋は姦通罪に問われる時代、命がけの恋愛だった。
二人は駆け落ちし、夫への絶縁状が発表される。
「私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視するあなたに
永久の訣別を告げる事にいたしました。
私は、私の個性の自由の尊貴を守り培ふために、あなたの許を離れます」
という、世間を驚かせる激しい内容であった。
だが、この事件から「恋に生きた激しい女」と
白蓮がとらえられがちなことに異を唱えるのは、長女で華道家の蕗苳(ふき)だ。
「そこばかりに重きをおいたら、本当の母の姿は伝わらない」と蕗苳は言う。
蕗苳が覚えているのは。竜介が結核で寝たきりだった3年間、
筆一本で生活を支えた強い母。
自分と兄、香織に深い情愛を注いだ優しい母の姿だ。
香織が学徒出陣で戦死した知らせが届いた後、白蓮はこんな歌を詠んでいる。
――もしやまだ/帰る吾子かと/脱ぎすての/ほころびなほす/心うつろに
法律も制度も違う時代に生きた女性の人生は、
見る角度によって全く違う像を結ぶ。
ただ白蓮の作品と生き方から一貫して伝わってくるのは、
凛とした、自分を曲げない生き方だ。
その生き方こそが、今なお多くの女性に支持される理由ではないか。
白蓮は豊島区内の自宅で竜介にみとられ、息を引き取った。
4年後、竜介も鬼籍に入っている。 (敬称略)鈴木美潮
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※竜介(りゅうすけ)の表記は、普通
〝龍介〟とされている場合がほとんどのようです。
龍馬、竜馬とあるのと同じようなものでしょうか。
他に気になること、付け加えておきたいことをちょっとだけ・・・
最初の結婚相手、北小路資武との間に一子(功光)がいて
実家に戻る時に置いてきたのは仕方のないことだったようです。
本当はどんなに一緒に連れていきたかったでしょうか・・・
当時の家制度やいろんなことでどうしようもなかったんでしょう
どんなに辛い想いだったことでしょうね(ノ_-。)
それから、伝右衛門は豪邸を建て白蓮を迎えたものの・・・
と書いてありますが、豪邸自体は前からそこにあって
白蓮さんが興し入れの時に、その為を思って増築したというのが正しいようです。
2階の白蓮さんの居間のある部分がそうだったと思います。