機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ | 読んだり観たり聴いたりしたもの

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ

半年にわたって楽しんだアニメ。

世紀の名作、という程ではないが、期待程度には楽しめたと思う。
ガンダムシリーズをじっくり観るのは、10年ほど前のZガンダム以来である。

最終回で明かされるところに寄れば、今秋に、続編があるとの事だ。楽しみである。

と言うわけで詳細はそれを観てからいろいろと書こうかなと思うが、今、とりあえず簡単なところだけ。

まず、プラモ宣伝用のロボットアニメにしては、あまりバトルシーンをねじ込んでこなかったのが驚きだった。敵も味方もそれほど機種のバラエティが多くないし、そういう面では地味に感じた。収益構造としてはプラモより映像系アプリ系にシフトしたというような事なのだろうか。
そうした思惑を除けば、戦争の悲惨さと翻弄される運命の哀しさ、しかし、そこで生きる人間の意思が持つ強さをじっくりと描こうという気概は感じたし、中々その表現の成果も良かったと思う。しかし、その分、若干話が間延びしすぎた印象はある。

Zガンダムが、戦場に散る命のそのはかなさ故の情熱がアイデンティティとしての恋愛に注がれる様を描いたように、オルフェンズでも、エロスとタナトスの対比として、死と隣り合わせの日常で紡がれる性愛の機微をかなり色濃く描いていたのに驚愕した。
少年期の、母性への愛から性愛への移行への様々な段階や模様を描くのは当然として、昨今の風潮としてか、そこに同性愛や一対多など多様性を持ち込んでいるのは評価できるし、驚く事に児童性愛さえも忌避しない姿勢には、感銘を受けた。むろん、昨今の魔女狩りの様相を呈す児童性愛への異常とも言える弾圧と表現の自由への干渉を良しとしない気概ある表現者による叛逆の狼煙である事は間違いない。
私は児童性愛者ではないし、児童性愛に興味があるわけでも無いが、だからといって、児童性愛に関する表現に不当に干渉する風潮は快く思わない。歴史をひもとくまでもなく、初めはどんな些事であろうとも、表現の自由を制限する道の先にはやがて完全弾圧と独裁が待っている事は明らかだ。
私は、LGBTなど性的少数者が社会的認知を獲得すべく活動している事には敬意を払っているし、彼らが目指すような差別区別のない社会の到来を期待する一人ではある。また、何事も一足飛びには進める事はあたわず、順を踏んで段階を追っての慎重な進捗が必要な事も分かっているし、時には3歩進んで2歩下がる事もあるとは分かっているのだが、それでも、理想論を述べるなら、性的少数者の地位保全を掲げるなら、「あらゆる性的少数者」を救済すべきだろう。性的なアイデンティティや性的指向の多様さは疾病ではなく個性である、という立場であるならば、その多様さは可能な限り制限すべきではないはずだし、例えそれら性的嗜好の成就が倫理的に困難でその社会的許容が合理的でなかったとしても、その存在自体を否定し排除するような事はあってはならないだろう。ましてや思想や表現自体を弾圧するなどもってのほかである。
そもそも、特定の性愛を基盤としたコミュニケーションをもつ特定集団にのみ行政的恩恵を施すという社会設計自体が、そろそろ見直しの時期を迎えているのだろうと思う。もはや21世紀なのだ。LGBTにも婚姻を認めよう!などとチマチマ細かい事をやっていても、性的多様性のその多様さを考えるまでもなく、埒はあかない。今や、人々の多様性は白日の元に晒され、個人間のコミュニケーションが世界を席捲し、生殖技術は飛躍した。婚姻や家族という旧態依然の概念自体を根底から破壊して、もっとロジカルでもっと自由な社会形態を模索すべきだろう。世界的な人口爆発や先進国での少子高齢化など、旧態の社会システムでは対応が難しい問題が山積している現代である。生殖に強い影響をもたらす家族・婚姻という制度を一から再構築して人間社会の新しいステージを到来させることなくしては、人類はやがて人口問題に足下を掬われて倒れてしまうことは火を見るより明らかである。

と言うような事をぼんやりと考えた。この辺の詳しい話はまた機会があれば語ろう。とにかくマッキーには頑張ってもらいたい。

えらく脱線した。閑話休題。

歌舞伎などの日本の伝統芸能に端を発するような、見得を切るタイプの演出としての格好良さを指向とするロボットアニメの醍醐味としても、かなり満足行く水準だったのではないだろうか。リアル志向であっても、あくまでアニメであってリアルでは無い、というジャパンアニメの指向性(例えば、戦闘員が誰もヘルメットを被っていない。顔が見えないから)を踏襲した伝統的な作風である。

ストーリーについては、ラストでは鉄華団全滅してもおかしくないな、と終盤思っていたが、甚大な被害を出すものの、終わってみれば主役級はほとんど無事という肩すかしでもあった。無論、死ねば良いというものではないが、ちょっとご都合主義の割り切れ無さがある。続編の計画があったのなら、そこでの弾数も必要という事だろう。

個人的には、傭兵団を率いて巨大組織に育て上げそのトップに、そして世界に君臨したオルガを、双方の意味においてその呪縛から解き放つために斃す三日月、というシーンを持ってラストとなるべき、と常々考えていたので、今秋の続編にはその辺の所を期待したい。