短編 「憎しみの果てに」 第9話 | 日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。

短編 「憎しみの果てに」 第9話

車の中で、父と母が激しく口論している。
それは、これまでに何度となく繰り返されてきた光景で、そのたびに嫌な気分になった。
原因ははっきりしていた。
父には、母以外に好きな人がいたからだ。
母が、あの女などと、喚き立てている。

わたしが一人、家で留守番をしているとき、一度だけ見知らぬ女から電話があった。

「お父さん、いるかしら」

そう尋ねてきた甘ったるい女の声で、父が浮気をしているのだと、はっきりとわかったのだった。
初めて聞いた女の声で、なぜそう感じたのだろうか。
自分でも、よくわからなかった。
直感としか、言いようがない。
胸が悪くなるような思いのまま、翌朝父に、知らない女性から電話があったと告げた。
わたしの言葉に、父は顔色を変え、取り繕うように会社の人だと言った。
その時、わたしの感が間違いではなかったと確信した。
それと同時に、父を嫌悪した。


母が不憫でならなかった。
夜中、母が居間で酔いつぶれていることが時々あった。
テープルの上には、飲みかけの調理酒が転がっていて、母の顔を覗き込むと、涙を流していた。
そんな母の姿を見るたびに、父に対しての嫌悪は膨れ上がり、やがて憎悪に変わった。

「けんか、やめて」

わたしは叫び声を上げていた。

「真由美は黙っていなさい。大事な話をしているんだ」

父が憎かった。
父さんなんか、いなくなればいい。
いつも心の中で、密かに思い続けていた。
どうしても、母以外の人を愛しているということが許せなかった。
怒りで体が震え、気が付くと低い、小さな唸り声を発していた。

突然の耳鳴り。
それと同時に、父が嫌な叫び声を上げ、ハンドルに覆いかぶさるようにして倒れた。
ゆらゆらと車体か右へ流れ、中央分離帯に接触する。
その反動で、徐々に車体は左に寄っていった。
速度も徐々に上がっている。
母が必死でハンドルを動かそうとするが、父の体が邪魔でびくりとも動かない。
母はそのまま振り返り、わたしの方へ体を伸ばしてシートベルトをかけようとするが、どうしても手が届かなかった。
母は自分のシートベルトを外して、さらにシートも倒し、やっとわたしのシートベルトに手をかけることが出来た。
わたしの方へ視線を向けた母は、困惑とも恐怖ともつかない表情を浮かべながら、一度わたしの名を短く呼んだ。
鼻から口にかけて、何か生温いようなものが流れていた。
手の平で口をぬぐって、それを目の前に翳した瞬間、衝撃が来た。
血で汚れた小さな掌が、今のわたしの掌と重なった。




気が付くと、田口も武田もいなかった。
横山は倒れたままだ。
また目の前の景色が歪んだ。
涙だった。
両親を亡くした事故は、わたしが招いた。
憎しみが父を死に追いやり、そして母も失った。
父は、わたしが呪い殺したようなものではないか。
横山や田口も同じだ。
あの二人も、ひょっとすると死んでしまったのかもしれない。


人を憎んではいけない。
絶対に。


叔母はすべてを知っていて、わたしにいつもそう言い聞かせていたのだろう。
わたしが憎んだ者は、必ず死ぬ。


夢でみた加奈子と同じように、わたしはフェンスを乗り越えて、階下を見下ろした。
どうでもいいような、そんな気分だった。
両親を、殺した。
そんなわたしは、生きていては、いけないのだ。
このまま身を乗り出せば、簡単に死ねる。
後ろで物音がした。
人影。
黒い塊のようなものが、駆け寄ってくる。
加奈子、なの。
よく見ると、それは警官だった。





横山は心筋梗塞で死んだ。
田口は脳内出血で病院に運ばれたという。
脳のかなり深い部分に出血があり、手術も困難らしい。
たとえ手術に成功しても、体に重大な障害が残る可能性もあるという。
同じ場所で、高校生が、その若さで患うはずもなかろう病で、二人倒れた。
そして、フェンスを乗り越え、ビルの淵で血を流しながら立っている、もう一人の女子校生である。
警察も首を傾げていたらしい。
警察に匿名で通報があった。
その通報では、屋上で、高校生二人が暴行を受けているとのことだった。
実際には、暴行の痕跡などなかった。
ナイフから、横山の指紋が出ているので、暴行を加えた方が倒れたということだった。
通報したのは、多分武田だろうと思った。

取調室を出ると、叔母が立っていた。

「叔母さん、わたし、、」

叔母は、眼にいっぱい涙をためて何度も頷いた。

「何も心配しなくてもいいのよ」

叔母の言葉を聞いて、わたしは嗚咽した。
わたしの両肩に手を置き、まっすぐにわたしを見つめて叔母が言った。


「わたしだけは、真由美のこと、ちゃんとわかっているから」