sengoku38とその論理 | SETAGAYA通信3.0

sengoku38とその論理

忙しい師走も間近。なんとなく新聞各紙を通読してみました。
やはり目につくのは近隣諸国問題となるでしょうか。
気になったことと言えば、思考が原理主義的になることです。
それはたとえば、欧米であるならば、ソクラテスになるでしょう。
こういう知の参照は珍しくもなく、市場原理主義として名高いハイエクはスコットランド啓蒙家のヒュームに戻ったのですし、さらには日本でも有名になったコミュニタリアンのマイケル・サンデルはソクラテスに戻っています。ハイエク然り、サンデル然り、そこで起動される様式とは、原理主義だと思うのです。


今、あらためて知の原理へ向かうこととは、商品やサービスの体系では決して論じることのできないものもあるということ。それはある種の現実を不動の前提とする思考からズレて思考すること。そういった現在のひとつの可能性です。可視化できない部分をみようとすること。


この場合の原理はどこに参照を置いているのかはわかりませんが、なにかそういった雰囲気を感じさせるものがありました。たとえば、行動原則は、楠木正成に端を発する岩倉具視などの尊王攘夷をルーツにした、2・26事件となるでしょう。明治維新と2・26事件の違いは尊王が大逆であること。明治維新の場合は尊王は尊王であることとなります。


三島由紀夫の唯識論であり、戦後日本の論理とも言えるでしょう。人間の認識は客観的に一致するかどうかを決して主観では決定できない。常に意識をループする他ない。そうであるならば、人間はなにかを決定することができないという生存条件から脱出することはできない。しかし、決定しなければならない時が到来するのである。三島の唯識論は一見、フッサールの現象学に似ていますが、その実マサリクでいうところの後期カントとなるでしょう。マサリクのカント認識。マサリクがカントを初期と後期に分け、初期を人間になる前の準備、後期を成熟期としました。成熟とは決定すること。江藤淳の言葉に倣えば、成熟することで喪失する。戦後日本の論理ともなりましょう。